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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 幸徳秋水(上)

 幸徳秋水(本名、伝次郎。1871〜1911)は明治期における初期社会主義を代表する、まさに先駆的人物である。

 秋水は、明治天皇の暗殺を計画したとする、いわゆる大逆事件で検挙され、絞首刑に処せられた。この事件は世に一大衝撃を与えたが、一方、検挙は朝鮮併合の3カ月近く前であり、処刑は併合5カ月後という背景もあって、少なからざる人々は、政府の「朝鮮問題に関わるな」という警告と受け取った面もあったらしい。本当に秋水は明治政府を怒らせるような朝鮮認識を示し続けたのであろうか。その秋水の朝鮮観、朝鮮認識について考えてみたい。

 秋水は高知県中村市で父嘉平次、母多治子の次男として生まれた。生家は薬種業、酒造家を営んでいたから、かなり裕福といえたが、父が、秋水満一年にもならぬ時に急死したので、かなりの転変があったという。1876(明治9)年中村小学校に入り、3年後、漢学塾修明館に入り漢籍を学ぶ。1881年、中村中学校に入学。この年は所謂「明治14年の政変」の年で、明治23年を国会開設の時とする詔勅が発せられ、自由民権運動は一大昂揚期を迎える。

 明治18、19年頃、郷里土佐出身の「天下の名士」林有造を知り、また板垣退助が来たとき「予も亦席に列り初めて自由の泰斗なるものを見たり」とある。この席で少年秋水は歓迎の「祝詞を朗読」した。彼の感激、想うべし。明治20年、秋水は上京、林有造の書生となって英学館に通学するも、その年12月、保安条例公布で中江兆民ら570名が東京外に退去を命じられた時、何と秋水も17歳で令状を執行された。

 1年後、再び上京しようとし、大阪に留まっていた時、友人の紹介で、生涯の師、中江兆民の学僕となる。中江家が東京に戻った時、同行して中江家に寄寓、1892(明治25)年12月、国民英学舎を卒業した。それより後は、新聞記者生活が続くようになる。明治26年、自由党の機関紙「自由新聞」で英字新聞の翻訳を皮切りに、一時「広島新聞」、さらに「中央新聞」、また「団々珍聞」の社員となるが、1898(明治31)年2月、「万朝報」に入社、秋水の本格的言論活動が始まることになる。

 時期は日清戦争から日露戦争までの近代日本にとっての激動の10年間にあたる。

 さて幸徳秋水の朝鮮認識である。

 秋水は「日露議定書を読む」を「万朝報」の明治31年5月14日付に発表している、日露議定書とは、日露両国が、韓国の主権と独立を確認し、韓国に内政干渉をしないことを約束した、所謂、「西・ロゼン協定」のことである。「夫れ朝鮮の前途は猶遼遠也。之を誘掖扶導して完全独立の域に達せしむるは、是れ日本の曾て自らその任とする所にして、抑日清戦争の大目的にあらずや」、と日本政府の弱腰をたたくものとなっている。

 明治33年7月、秋水は「日本人」誌に「清国問題と土耳其問題」を発表したが、これは前年、清国に義和団が起こり、翌34年6月、北京の各国公使館が包囲され、各国兵、義和団と交戦したことに因んで書かれたものである。

 「我国が朝鮮の扶導を標榜し、清国の保全を主張し、東洋の平和を呼号する所以の者は、実に是れ之れ(秋水は、正義と人道、という意味でいう)に由るに非ずや。吾人は清国の動乱を鎮定する為めに大兵を出すべし、而して出兵の資を償はしむべし」

 また、明治33年8月3日付の「万朝報」に「日露の関係(朝鮮問題)」という論説を発表する。「朝鮮問題は現在及び将来に於ける東洋問題の楔子たるべき者也」「露国が朝鮮の一港だも得ること有らん乎、是れ日本の為めに、否、東洋全体の平和の為めに一大毒針を刺さるが如しと、…、露国にして強て之を主張し実行せんと欲せば、即ち東洋新興の強国と宜しく一大決戦を試むるの覚悟なかる可からざる也」。この時、秋水は朝鮮領有権をめぐってロシアと一大決戦をするつもりだったのである。

 このように侵略的にして好戦的な秋水が、その、たった4日後の同じ「万朝報」に平和主義に立脚した「非戦争主義」という論説を発表し、「平和論者、非戦争主義者は、何ぞ多数兵士の苦境を説かざるや」「何ぞ軍人遺族の悲惨を説かざるや」と戦争の悲惨と人々の苦しみを論じた。そして、同年8月23日付の「万朝報」に「朝鮮の動乱と日本」と題する論説を発表、論中「我日本が朝鮮の独立を扶植し、平和を保持するに力むるは、二十七八年(注・日清戦争)以来の国是とする所にして、而して是れ我国家存立の為めに必要の条件たる也。……。若し朝鮮一坏の土壌たりとも、他列国の手に委する如くんば、是れ実に将来帝国の危険にして而して東洋平和の危険也。我日本は今後の危機に際しては、仮令、朝鮮政府の希望之れなしとするも、猛然自ら進んで彼を幇助し、平和保持の事に任ぜざる可からず」。

 当年の幸徳秋水には、朝鮮人民の存在はおろか朝鮮政府の主権そのものも眼中になく、在るのは、蔑視と明治政府と一体感をもった侵略野慾のみであった。(琴秉洞、朝・日関係史研究者)

[朝鮮新報 2004.9.15]