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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 幸徳秋水(下)

 明治34年1901年4月、幸徳秋水は「廿世紀之怪物帝国主義」を刊行した。この著で秋水は、帝国主義は愛国心を経となし、軍国主義を緯となす、として、所謂、愛国心と軍国主義を批判した。しかし秋水は、日本の愛国心と軍国主義の結晶たる朝鮮領有化政策については全く批判していない。それどころか「天下の至愚」(明治34年5月3日付、「万朝報」)なる文で伊藤博文を批判して「彼が遼東(半島)を還附するも、朝鮮に於ける我権利利益を喪失せるも、……、彼が優柔不断の結果」と、その弱腰をたたく。また、同紙5月12日付の「妨害と復讐」とでは、山県有朋の党派と伊藤の党派との争いにふれて、「互に嫉妬し妨害し排擠し、復讐は復讐に次ぐ惨事を演出し来れば也。嗚呼、是れ直ちに朝鮮人の政争にあらずや」とやる。この朝鮮蔑視と領有化構想は、満2年後の「日本の東洋政策」(「万朝報」明治36年5月17日付)において更に露骨化する。

 この論説は、「某外人の書信」を紹介する形を取っていても、これは全く秋水の考えに外ならない。「日本今日の急は朝鮮の経営に在り、……、人口過剰に苦しめる日本は、彼の茫漠たる朝鮮の沃野を以て、何ぞ直に日本農民の鋤犁(すき)の下に置かざるや、若し多数の人口にして朝鮮の地に住し、其富源は、其農工は、全く日本人の手に落つるに至らば、是れ朝鮮を以て事実上、日本のプロテクトレート(保護領)と為す者に非ずや」。この政策は2年余り後、朝鮮が保護国化された時、この通りに実施された。

 同年6月19日付の「万朝報」に「開戦論の流行」という秋水の文が載る。ロシアと開戦すべし、という意見が日本社会に充満している現状に「兵は凶器である、戦争は罪悪である。多数生民の平和と進歩と幸福とを愛する者は、飽までも之に反対しなければならぬ」と、非戦論を打ち出したものである。また、同年8月28日付の「抛棄乎併呑乎」という論説がある。 「今の問題は、如何に朝鮮の独立を扶植すべき乎の問題にあらずして、……、答ふるの途、唯だ―あるのみ、―は抛棄也、他は併呑也」「抛棄、若し人類を利せば抛棄せよ、併呑、若し人類を利せば併呑せよ」「布哇の」「比律寶の」「琉球の」「台湾の独立は扶植せられざりき、何ぞ独り朝鮮の独立を扶植せざる可からざるの理あらんや」。何とも凄い秋水の朝鮮論である。

 秋水は明治36年7月、社会主義協会で「非開戦論」と題する演説を行っている。「戦争は断じて煽動すべきものでない、近い例は日清戦争である、……、アノ戦争は、……朝鮮の独立を扶け、支那の暴を懲らすといふのが目的で、所謂、仁義の戦争で、世の人の嘆美した所であった」という。

 また同年8月「日本人」誌192号に「非戦論」なる文を寄せ、「我国民の朝鮮に於ける経営の基礎が、今に於いて確立しないのは、露人の妨害の為めでも何でもない、日本の貧乏なる為めである、イクヂのない為めである」とやる。社会主義を口にし、非戦論を云うも朝鮮侵略は肯定している。

 その秋水は「万朝報」社内が開戦論で固まったため、堺利彦、内村鑑三とともに「万朝報」社を退社し、秋水と堺の2人は平民社を興し、週刊「平民新聞」を創刊し、これに拠って、非戦論と社会主義を訴え続けることになる。

 週刊「平民新聞」の第一号から終刊の第六十四号までの間、秋水の真正面から朝鮮を採り上げた論説はない。唯一、「朝鮮併呑論を評す」というのがあるが、これは、徳富蘇峰と海老名弾正の韓国論に反論したものである。蘇峰は「国民新聞」社説で2回にわたり韓国経営について書いたが@の結論は、韓国を「我国の保護の下に」ということで、Aの結論は、日本の「韓国経営の第一着手として先づ軍事的経営を勧告」した、として秋水は痛烈に批判した。「領土保全とは明らかに領土併呑の事也。此に至っては独立も保護もあったものに非ず、世の義戦を説く者、世の『韓国の独立扶植』を説く者之を読んで果して何の感あるか」と書く。

 また、海老名が「新人」誌社説で「朝鮮民族の運命を観じて日韓合同説を奨説す」を書いたことを批判する。つまり合同とは、合併、併呑ではないか、「今の合同を説く者も、領土保全を説く者も、同じく曾て韓国の独立扶植を説きたることを、然らば則ち将来の事また知るべきに非ずや」と。

 ここで吾々は知る。この評論で、秋水は朝鮮問題では、一年前と全く逆の立場、すなわち、反侵略という正しい立場に立ったことを。

 秋水の朝鮮領有論から反侵略への転換は何故おきたのであろうか。思うに、週刊「平民新聞」に拠る、他の社会主義者たち、殊に木下尚江の透徹した朝鮮論に啓発されたのではないか、また自身の社会主義論の深化があったものと思う。

 ところで秋水は「安重根肖像絵葉書に題す」という詩を遺している。「舎生取義、殺身成仁、安君一挙、天地皆振」(生を舎てて義を取る、身を殺して仁を成す、安君の一挙、天地皆振う)直接行動論で知られる幸徳秋水が、安重根の義挙に対し、満腔の称讃を込めたものと言える。

 日本で初めてマルクスとエンゲルスの「共産党宣言」を堺利彦と共訳し、各種の社会主義文献を精力的に紹介した先駆的社会主義者幸徳秋水は、最後期に至ってやっと朝鮮が見えてきたのである。(琴秉洞、朝・日関係史研究者)

[朝鮮新報 2004.9.21]