〈朝鮮歴史民俗の旅〉 契(2) |
契は目的に応じて成員の数、成員の属性、事業規模、運営方法などに違いがあるが、加入者の平等互恵の契約精神はいずれの契にも徹底している。親はいてもその人は集団のリーダとは違う。原則として全会員はまったく平等であるし、親といえども優先権はない。平等の論理は、親族や政治の垂直上下の論理とは異なっている。封建主義と中央集権体制の朝鮮王朝は、その仕組みから上意下達の縦社会と見られがちであるが、そう決めつけてはならない。横の平等関係を重要視する契という存在が社会の調和を保っていたのである。 朝鮮王朝時代の人間関係は、親族による関係と契による関係によって相互に補われていた。親族関係は血筋の関係であるのに対し、契の関係は親しみと信頼の関係である。親しさによる信頼感を基にして、経済的にも協調関係を持つことで、理想的な人間関係を作ろうとする意識が働いていたのである。 地域住民社会では契とともにもう一つ重要なシステムがあった。トゥレという共同農作業組織である。契が経済の面で効率性を発揮したのなら、トゥレは労働の効率性を高めた。トゥレの作業集団は地域の若者たちで組織され、必要な共同作業所に投入された。病人のいる家、婦女子や老人の家の田畑を優先したが、要請があればどのような作業も手分けしておこなった。 トゥレは両班を除いて、純粋に農民たちによって作られた作業集団であったので自主性と結束は固く、高い能率性を発揮した。トゥレによる農作業場は祭りのような活気をおびていた。あぜ道には「農者天下之大本」の幟がはためき、銅鑼や太鼓が鳴り響き、娘たちは着飾って農楽舞を踊った。数十人の屈強な若者たちが銅鑼や太鼓に後押しされ、うら若い娘さんたちにはやし立てられれば、数百町歩の田や畑の作業もものの一日もあればおえてしまうのである。その高い労働意欲の前では馬に乗った両班も下馬して敬意を表さねばならなかった。 契は朝鮮王朝末期にさらに拡がり社会の隅々にまで張りめぐらされた。契のない村はなく、属さない人はいなかった。地域共同体のより所であった契は、さらに社会の各層や分野に広まり、おびただしい数と種類の契が現われた。 近隣の間では洞契や通契を結び、特殊な職業に従事する者どうしにおいては、屠殺業なら牛皮契、運び業であれば車契、船主であれば船契、漁民たちでは魚網契などを結んで結束した。 朝鮮の契のもう一つの特徴は、相互扶助にとどまらず、結社的な性格を帯びていたところにある。それは、一貫して庶民金融制度として発達してきた日本の頼母子講と大きく異なるところである。 さまざまの形と目的を持った契が現れている。こころざしを共有する者たちは同志契、親しい友人の間では同甲契、同門の間では書堂契や学契が結ばれた。剣契とか殺主契といった物騒な契も現われている。剣契は腕に自身のある剣客たちの契ではない。無法者や無頼漢たちの契であったと当時の記録が伝えている。殺主契は奴婢たちが結んでいた組織であった。卑しい身分にさらされ、迫害と過酷な労働を強いられていた奴婢たちが、連帯意識をもって復讐のために結んだ秘密結社なのだ。朝鮮史上に義賊として名をのこした林巨正・張吉山の活動を支えたのは、他ならぬこの殺主契の奴婢たちであった。 一風変わった契に酒契があった。これはもちろん酒飲みの契である。主に都市や港町の貧乏な酒飲みたちが、酒代の貸し借りのためにと作られたもののようだが、いずれにせよ契のすそのの広さを現すものである。 朝鮮社会に、網の目のようにしっかり張りめぐらされた契は、その一つひとつがその地域と住民の生活と安全を守る砦であった。過去に幾多の天災と人災がこの国を襲った。外来の侵略と戦争で全国土が廃墟に帰したことも一度や二度ではない。 災害や戦争が起こるたびに、政府の官吏や両班たちはいち早く安全地帯に避難した。しかし庶民は契を砦に故郷を守り通した。戦では村民まるごと義兵になって戦い、災害時にはすべてボランティアになって決起した。契は親ぼくと相互扶助のための組織であったばかりか、地域社会と国家、国民の安寧と繁栄のための組織であったのだ。 在日同胞社会もトンネという一種の地域共同体からなっている。トンネの人々は寄り合っては議論し、金を募って学校や会館を建て、それを拠点に冠婚葬祭や文化的イベントを行っている。半世紀を越える在日の生活はトンネなくして考えられない。トンネあっての同胞社会である。 日本の植民地時代に朝鮮総督府は契の廃止を幾度も試みた。その主な理由は、庶民レベルに留まる金を金融機関に廻して資本化させるためであったが、本当のねらいは、契の名を借りた反日独立組織を根絶するためであった。 総督府の調査では、当時、2万8600余りの契が朝鮮各地に組織され、それらが反日運動の隠れ蓑になっていたというから、支配者である日本にとっては、大変やっかいなことであったのであろう。しかし総督府とて張りめぐらされた契を無くすことはできなかった。契は朝鮮人のこころに根づいた目に見えない砦であったのである。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師) [朝鮮新報 2004.9.25] |