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〈朝鮮史を駆け抜けた女性たちC〉 於于同

 毒婦、妖婦、淫婦、悪女。朝鮮王朝九代王成宗(1457〜1494)の治世、女性に「冠される」不名誉な呼び名を「ほしいまま」にしたのが、生没年不詳の於于同という女性である。

 当時の高級官吏の家に生まれ、権勢と富のうちに育ち、その容貌は美しく、王家に連なる名門に嫁しながら、家に出入りの年若く美丈夫な銀細工職人と通じ、夫に発覚した挙句離縁される。美しい侍女と家を出た於于同は、しおれるどころかその「自由」を満喫する。夕暮れ時に美しい衣に身を包んだ侍女が、街中で美少年を物色しては於于同の所に誘った。今で言う、逆ナンパである。また月の明るい夜などは2人で出かけ、声をかけられるのを待ったという。

 それだけでは飽き足らず、世宗王の孫と夫婦同然の暮らしを送り、一時仲睦まじく暮らし、詩を詠んだりしたらしい。また、朝官や儒生、若い無頼漢など、彼女と関係を持った者は相当な数になる。悪い噂は朝廷にまで届くところとなり、彼らは厳しい取調べや拷問、流配のすえ、その関係が明るみに出た者が数十人、また罰を免れた者もいた。一説には、高位の官吏であるほど、於于同との関係を否定したそうだ。こうした希望のない生のあり方からは、自我に目覚めながらも、自由に生かす条件に恵まれなかった於于同のうめきが聞こえてくる。

 義禁府では彼女の「罪」について、「法に照らしても、死刑に処することはできかねるので、どこか遠くに流してしまうのが妥当」と言っている。ところが、風紀を正す目的で、王が彼女の処刑を命じる。絞首刑だった。

 巷では、風紀を乱したからといって処刑されてしまうのは、あまりにもかわいそうだ、良家の子女なのにと、涙を流し同情する者もいた。

 以上は成俔(1439〜1504)の「慵齋叢話」による記録である。

 於于同についてはほかに、「李朝実録」や權應仁(生没年不詳)の「松溪漫録」、南孝温(1454〜1492)の「秋江冷話」などに記録が残る。名前が少し違うものはあるが、おおむね「慵齋叢話」と同じく、「淫乱で、風紀を乱した女」と評され、中には彼女がしたためた漢詩を伝える記録もある。「才能はあったが、身持ちが悪かった」との評を添えて。 成宗王はその治世後期、「遊興」に興じた挙句、王妃尹氏の嫉妬を買い、その顔を引掻かれてしまう。有名な甲子士禍の遠因になるわけだが、王自らが「夜の帝王」だったということである。だが於于同は王ではないばかりか、男でもない。王室と「関係」が深かったため、調べれば調べるほど、王族の名が…ということで、いち早く始末してしまう必要があったわけだろう。王室にとって、不名誉だということだ。

 「慵齋叢話」に、興味深い記録がある。

 「水原の妓生が客を拒否したかどで、鞭打ちの刑に処された。彼女は多くの人々にこう言った。『於于同は淫乱な行いを喜んでしたかどで罰せられ、私は淫乱ではないとして罰せられる。朝廷の法は一体どうなっているのか?』。彼女の言葉に皆が頷き、正論だと言った」

 於于同の行いは褒められたものではなかったが、閉鎖的な制度の中、男性中心の倫理観に一石を投じたのは間違いない。儒教のイデオロギー下にあって、外出禁止、男女交際禁止などの男女差別のしきたりで、生活のすみずみまで女性は監禁生活を強いられた朝鮮王朝時代。女性が人間扱いされない時代において、その一生を自らの欲望のまま「恋」に生きた、稀有な女性であろう。

 「松溪漫録」に伝わる彼女の詩は、次の通りである。

     扶餘懐古詩

 何もない白馬台は幾年月たち
 落花岩は立ったまま長く時が過ぎた
 青山がもし沈黙しなかったならば
 古の興亡を知る由あるものを

 (趙允、朝鮮古典文学研究者)

[朝鮮新報 2004.9.27]