プロレタリア作家・姜敬愛の墓碑を訪ねて |
私はこの夏、平壌で開かれた第2回世界コリア学大会に参加した折、長年の夢であった作家、姜敬愛の墓碑を訪ねることができた。 8月26日、私たち(大会に参加した詩人、金学烈先生も同行)は、朝7時に平壌を出発、黄海南道長淵郡へと向かった。 姜敬愛の故郷
車で約3時間余り、彼女の生まれ故郷松禾にたどり着いた。なだらかな曲線美を見せる端山、静かに波打つまっ青な田畑、美しくのどかな景色にしばし、うっとりした。 もう長淵までそう遠くないだろうと思った。若くして夫を亡くし、湖口の策として再婚した母と共に、移り住んだ長淵、彼女の実質的な故郷である。車窓からは、水遊びや魚釣りを楽しむこどもたち、野草を食むヒツジやヤギ、それから跳び回る鶏も見える。川向こうの家々には、カボチャの蔓が屋根を抱きかかえるように垂れ下がっている。 情緒豊かな長淵の風景に、私の目頭はなぜか熱くなった。車は沸陀山脈が眺められる杜鵑山の山並みに沿った端山、そのふもとで止まった。姜敬愛の墓碑は、山道を10分位歩いて登った丘にあった。花束を添えると、熱いものが込み上げてきた。
墓碑の前面には、星卯の下に「姜敬愛の墓」、右側に彼女の生没年と、墓碑建立日(1949.7.1)が刻まれていた。機関銃射撃を受けた、朝鮮戦争の爪跡が痛ましかった。 右側面には李箕永など、墓碑を建てた作家たちの名前が、左側面には代表作「人間問題」をはじめ、11編の作品名、そして後面に遺稿詩「クマイチゴ」が刻まれていた。 私たちの胸を熱くさせたのは、前面下に刻まれた「墓主ユ・チョルス」という名前だった。同行した黄海道作家同盟委員長で、作家の宋兵俊先生の話によると、彼は姜敬愛の意志を継ぎ、創作する決意で20年前から進んで墓を管理してきたのだという。今は、楽淵鉱山で働きながら詩人として活動している。 「人間問題」の舞台 墓碑を後にして山を降りた私たちは、昔彼女が通った長淵小学校に立ち寄ったあと、すぐに隣村の龍淵郡へ向かった。龍淵面龍井里には、龍沼伝説が伝わる怨沼という池がある。作品「人間問題」の冒頭に登場するあの怨沼である。
広い平野の真中に湧き出る泉、「龍淵怨沼」を見た瞬間私は驚嘆した。70年前彼女が見て書いたそのとおり「白い生地があったら染めたくなるくらいそれほど」青くまっ青な池であったからだ。 この池は新生代のとき、火山の噴出でできたもので白頭山の天池と同じ時期に当たる。1秒当たり0.3m3、水深24.7m、水温は13℃で、水は透き通るエメラルドグリーンであった。 解放後、金日成主席と金正日将軍は、現地を何回も訪れ、この湧き水を利用する方法について具体的に教えられたという。 そして現在、この水はニジマスをはじめ、ソウギョ、ハクレン、コイ、レンギョ、ナマズなどを飼う20町歩の養魚場と200町歩の水田を回流し、住宅120棟の飲料水として供給されている。そればかりか発電所を建設、住宅120棟の電気と魚の飼料加工に使われる電気も起こしている。 「泣いて泣いて、その涙がたまりたまって」できたというこの池が、今では文字通り人々の「生命の水」となったのである。 昼時、まだ若い女性管理委員長が生きのいいニジマスを刺身にして持ってきてくれた。 貧しく冷遇される人々が、幸せに暮らせる世の中のために、息を引き取るまで筆を捨てなかった姜敬愛の面影が人情深いこの土地の人々の顔の上に重なり合った。 2004年のこの日は、私の生涯において忘れられない日になるであろう。(呉香淑、朝鮮大学校・文学歴史学部教授) ※姜敬愛(1906〜44):平壌・崇義女学校3年(1923)中退(ストライキを起こしたリーダー格として退学処分)。その後、文学修行のかたわら故郷長淵で夜学を開く。以降、間島、龍井に移住し小説を執筆。作品に「母と娘」、「菜田」、「塩」、「人間問題」、「原稿料二百円」、「長山串」など。 [朝鮮新報 2004.10.6] |