top_rogo.gif (16396 bytes)

オモニへの手紙

「あの日」

あの日 1月17日午前5時46分/大地がかつてないほどに揺れた時/私たちが愛した街は/突如私たちに襲いかかった/清く澄みわたった青い空の下/炎の中で 瓦礫の中で/長い長い一日を過ごした/そして 街が消え 愛する人を失った

家族を失った者/家を失った者/仕事を失った者/何かを失った者はみな被災者だった/給水車に並び/避難所で配給の菓子パンばかりを食べる毎日/みなが被災者だった

オモニ!
 「チョウセンはあかん、たちが悪い」が口癖のオモニ。なのに授業参観の時、日々の生活に追われ、滅多に着ることのなかったチマチョゴリを晴れやかに着ていたオモニ。
 民族を恥じることしか知らなかった幼い私には、そんなオモニがどうしても理解できず、オモニの愛情を素直に受け入れられない時もありました。
 学校の安置所で、親戚の叔母さんがオモニの顔の泥を拭い化粧をしてくれたのは、地震から3日目のことでした。
 化粧とは無縁だったオモニの、紅をさした明るい顔を見たのは、それが最初で最後でした。
 その時でした。人が心から悲しみ慟哭する時、呼吸が止まり、全身が痙攣することを、私は初めて知りました。

「心の38度線」

あの日から一年後の1月17日/神戸で二つの慰霊祭/南と北がともに心を合わせて一つの慰霊祭ができない!/分断の悲劇に生きる私たちは 今又新しい悲劇を生み出したのだ!

争いの絶えない親たちもわが子を亡くした時/自らを恥じ帰らぬわが子を悼むだろう/いがみ合う兄弟でさえ親を亡くせば/力を合わせて葬式を執り行うではないか

オモニ!
 私たちは弁解できるでしょうか? 私たちは何をどう言い訳できるというのでしょうか?
 私たちは「心の38度線」にとらわれてはいないでしょうか…。
 あの困難な日々、生き抜くために懸命であった日々、私たちの「心の38度線」はたしかに取り払われていました。
 ひとつのパンを分け合うことが日常でした。民団の炊き出しに総聯の人々が並び、朝鮮学校で民団の人たちが避難生活を送りました。
 人を救うのは人しかいない悲しみの街に、人の愛が、民族のやさしさが溢れていました。

「二つの奇跡」

20世紀最後の年 西暦2000年/7千万同胞と この地球に生きるすべての人々は/二つの奇跡を目撃した

6.15南北共同宣言/分断に抵抗し続け 統一を願い続けた/すべての同胞の血と涙で用意されたそのペンとその紙で/南北の指導者が誓ったのだ/世界に宣言したのだ/6.15南北共同宣言―統一こそが民族の生きる道だと

統一旗/シドニーオリンピックの開会式/二人の旗手が一つの旗を慈しみ高々と掲げ/力強く華麗に翻った統一旗/真っ白な旗地に くっきりと浮かぶ青い地図 「統一旗」!

もはや奇跡などではない/決して夢ではない/「統一」は近づきつつある現実なのだ/半世紀を越える分断の歳月/決して夢見る事をあきらめなかった「統一」が近づいている/すべての同胞が「統一」の手触りを/今 いとおしんでいるのだ/

 オモニ!
 わたしたちは今、新しい時代に向け歩き始めています。こころの38度線を徐々に消し去ろうとする「こころ」が、一人一人の中に沸き起こり、そして熟したとき、念願の統一が成就するのです。
 オモニ! 見守ってください。必ず成し遂げます。
 オモニ! 何時しか、南は漢拏山から北は白頭山へと続く祖国の大地が、祖国三千里の山河が、私たちに微笑みかけてくれる日はそこまで来ています。

「すべての河は海へ流れる」

すべての河は海へ流れる/白頭山と漢拏山に落ちた雨の雫は/美しい朝鮮の大地で めぐり合い 混ざり合い/幾筋もの河をつくりだし海へ流れ行く/すべての河は海へ流れる

 オモニ!
 私は誓います。オモニの子供として、すべての同胞とこころをゆるし合い、日本に住むすべての人々と助け合い生きてゆくことを。
 オモニの歩んだ道をたどり、オモニがついに見ることがなかったあの峠を、私は今越えてゆきます。
 オモニ!

多くの峠を越えてきた民族は/山の頂に近づくほどに/より困難な峠を越えなければならない/だが河は/この時刻にも流れる 海へ 海へ

われらも流れよう 河のごとく/分断の哀しみの涙を 統一の喜びの涙にかえ/河となって/進もう/流れよう/

おお 7千万同胞よ/すべての河よ/海へ流れ行け(崔孝行、この詩は3日、「統一マダン神戸」で朗読された)

[朝鮮新報 2004.10.13]