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〈朝鮮歴史民俗の旅〉 両班(1)

 朝鮮王朝の時代は両班主導の時代であった。国の法律も制度も両班の利益を保障するものであった。もちろん最高主権者は国王であり、国王の批准、命令なくして国事は決められるものではない。しかし、朝鮮の国王は絶対的専制君主ではなく、その権限の多くは両班によって制約されていた。朝鮮王朝は両班官僚国家であった。

 両班とはどういう人々であったのだろうか。両班を日本語に置きかえるなら士族ということばが適当と思われる。辞書には、「士族は華族の下、平民の上に位する」とあるが、朝鮮の両班のイメージは漠然としてはっきりしない。「封建社会における家門と身分の高い上流階級の人」「世襲的に文班、武班になれる資格を有する門閥」が両班である。

 もともとは高麗に始まった。当時は、朝廷で行われる儀式などに参席する現職の官僚たちの総称であった。国王に向って右側に文官が、左側に武官が並ぶ習わしがあったことから、左右合わせて両班と呼んだ。

 朝鮮王朝の両班には、都であるソウルおよびその周辺に代々住むものと、地方の農村部に住むものの二つがあった。前者を在京両班、後者を在地両班という。在京両班は、両班層の中でも名門に属する家系が多く、有能な科挙合格者を多く輩出した。政府の高位高官に就くのは主に彼らであった。これに対して在地両班は、地方の農村に長く住み着いて同族集団をなし、地域の行政にかかわっていた。

 両班の生きがいといえば官吏であることだった。科挙に合格して官吏になり、官吏であることによって両班の身分が保障されていたからだ。家柄により推薦されて官吏になる道もなくはなかった。しかし、それはごくまれで、彼らは科挙という国家試験の関門を突破しなければならない。

 一般の両班家庭では、5歳を前後して「千字文」「童蒙先習」を習わせ、15、16歳には四書五経をマスターさせていた。そしてさらに、十数年の間、官学か私学に身をゆだねて学問を磨き、いよいよ登竜門である科挙試験の日を待つのである。

 当時の科挙試験の平均的合格年齢は35歳。試験科目は経学、詞章、策文の3科目。受験者は、膨大な四書五経と数百編の詞章を諳んじるほどに頭にたたき込んだ。

 例えば、「周易」では2万4107文字、「礼記」では9万9010文字、「春秋左氏伝」に至っては、19万6845文字からなる。これらをまる暗記することはほとんど不可能に近かった。だが、この難関を乗り越えた者たちのみに、家門の栄誉と特権が与えられるのであるから、不退転の覚悟をもって勉学に励んだ。

 科挙試験は、普通は3年に1度、ソウルの王宮で行われた。合格者は小科に240人、大科に33人。最終試験は殿試といい、国王参席のもとで行われたが、国王が国家懸案に対する質問を提示し、提示された問題に対して迅速、明快に自らの策を述べなければならない。

 33人の殿試者はさらに甲科3人、乙科7人、丙科23人に振り分けられた。自他ともに認める当代最高のエリートたちである。合格発表されると、国王参席のもと合格証授与式が王宮で行われ、合格者全員がソウルの目抜き通りを駕籠に乗せられて歩いた。いま風にいえばオープンカーに乗ってのパレードである。街はこの国のエリートたちを一目見ようと人山人海をなした、と当時の記録は記している。

 朝鮮王朝が両班に与える官職の数は限られていた。総数は、中央、地方をあわせておよそ5千人程度。このうち3300が武官、1700が文官である。文治主義の朝鮮王朝では武官より文官が上位にあった。その文官の官職は、地方官1000に対して中央官は700。その数少ない中央の文官職を目ざして両班たちはしのぎをけずっていた。

 官吏の一日の始まりは早かった。官庁への出勤は、夏時に卯時(午前5〜7時)、冬に辰時(7〜9時)である。出勤するとまず口座簿(出勤簿)に捺印する。出勤日数は年間300日。欠勤すると官吏評価で問題となった。

 官庁の仕事は国王参席の朝賀に始まる。朝賀には、毎月の1日と15日に開かれる祝賀朝賀と、5日、11日、21日、25日に行われる朝参があったが、全員が官服に身を包んで国王を謁見した。議政府と六曹などの最高位の官僚たちは、毎朝、宮殿に国王を訪ねて挨拶を述べ、必要に応じて国事を報告し教示を頂いた。 

 官吏の一日は多忙であった。六曹の場合、判書(大臣)の責任のもと、堂上官は政策を担当し以下のものがそれを実務的に支えた。例えば文官の官吏を掌握する吏曹の場合、官吏の任命を担当する文宣使、爵位の授与を担当する告訓使、職務遂行状況の把握を担当する告工使をおいていたが、その各セクションに正郎1人、左郎1人をあたらせていた。

 仕事は部署によって異なるが、最も忙しいのは要職である吏曹であったらしい。ソウルをはじめ各道、府、県からおびただしい書類が届けられていた。嘆願書、告発書のほか、だれそれを抜擢してどこそこの地位に就かせてほしい、といった要請書まであった。それらをぬかりなくチェックするのである。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.10.16]