top_rogo.gif (16396 bytes)

〈生涯現役〉 同胞を撮り続け、20万カット−徐元洙さん

 イラク侵略戦争、武装化する日本。迫り来る次の戦争……。在日歴72年を振り返りながら兵庫県西宮市に暮らす徐元洙さんは、自国の過去と現在を棚上げにした日本の「北朝鮮バッシング」を痛烈に批判した。

創氏改名を「許可」?

いつまでも若々しい徐元洙さん

 例えば、昨年の自民党政調会長麻生太郎による「朝鮮人創氏改名は、最初は当時の朝鮮人が望んだことだ」という暴言。徐さんもまた、「許可に因リ其ノ名元洙ヲ元一と改名」させられた。

 「『許可に因リ』やて! なにをいうか。日本の当時の為政者どもが捏造した、支配のための口実や」。どの時代においても、権力者は「強制」を必ず「許可」とうそぶくものなのだ。

 24年、慶尚南道金海生まれ。舞鶴鉄道の鉄道工事現場で働いていた父を頼って33年2月、母と共に8歳で渡日。京都・綾部の鉄橋の下の飯場で荷を下ろした時の寒々とした光景が、70年経った今でも目に焼きついている。再会を果たした父の「ネクタイのようにやせ細った、みすぼらしい姿」にショックを受けて、口も利けなかった。それ以来、被植民者としての苦難が始まった。学校に行っても「チョーセン」となじられ、成績がよくても就職すらできない鬱屈とした日々を生き抜いた。

 「日本帝国主義は朝鮮を侵略し、あらゆるものを略奪していった。金、銀、銅やら米やら牛やらね。タバコや魚のイワシまで全部巻き上げて日本へ持っていった。でも彼らは当時もいまでもこう言っている。『朝鮮人のために鉄道を敷いてやった』『朝鮮の発展のためにしてやったんだ』とね」。憤懣やるかたない激しい怒り。朝鮮人強制連行を否定、隠ぺいし、記録から抹消しようとする不気味な動きが日本列島に渦巻く。

 「拉致、拉致と騒ぐが、自らの歴史の暗部を認めようとはしない。『慰安婦』や強制連行という歴史的事実さえ覆そうとするのは、恐ろしい暴力だ。歴史をパッチワークのように都合よく書き替えてはならない」

脳梗塞にも

 徐さんは戦前、「日本人には負けたくない」の一念に燃え、学校を卒業後、朝鮮総督府に一時、職を求めた。そのために金海の実家の祖父母は近隣の人々から白眼視された。「お前の孫は何が悲しゅうて総督府で朝鮮人弾圧のお先棒を担ぐのか」と責められ、家には石が投げ込まれたり、外を歩くと竹の棒で追いかけられたり、小突かれたり…散々な目にあったと後に聞かされた。

 その後、賢明な徐さんは朝鮮民衆の怒りと暴力的な日本の統治の実態に気づき、8カ月後には反日運動に目覚め、治安維持法違反で捕まり、神戸刑務所にぶち込まれてしまった。「日本敗戦の半年前や。ちょうどイラク戦争の時のように米軍が毎夜、空爆ならぬ空襲をしかけてくる。アメリカの爆撃機が何十機も連なって襲来し、焼夷弾を落とす。大阪も神戸も西宮、尼崎もみんな焼野原になった」。神戸刑務所が空襲を受けたとき、殺人、強盗、強かんなどの罪で服役中の凶悪犯ですらも4人一組で腰縄をくくって、裏庭に避難させられた。「絶体絶命の状況でも私を避難させてはくれなかった。『国賊』にはその必要がない、言うて。私のいる部屋が木っ端みじんになっても、あいつらは何の痛みもなかったんやろね。害虫ぐらいに思っていたんやろ」。

 そんな苦難を生き延びた徐さん。どんなに辛い時でもなぐさめてくれたのが、カメラだった。37年、中学生の時、偶然目にしたライカ。羨望と憧れ。カメラの魅力にとりつかれた徐さんは以来67年間、仕事の傍ら、ひたすら同胞の歴史や家族の日常にレンズを向けてきた。趣味のゴルフも、酒も、たばこも一切やめるという徹底ぶり。その間買い求めたカメラは220台。撮り続けたカットは20万枚。いや、それ以上かも知れない。

 その中には祖国解放直後の45年10月、故郷への帰還者を乗せ西宮港を出港する「大正丸」の貴重な記録写真などが含まれている。日本の各新聞社にも貸し出して喜ばれてきた。

 「忘れられないのは、価値の高い解放前の平壌やソウルの街並みの写真や絵葉書、7千冊に及ぶ朝鮮関係の蔵書を、63年に祖国に寄贈して、文化相から感謝状を頂いたことです」

 昨年暮れ、脳梗塞で周囲を心配させたが、いまは全快。9月には元気な足取りで祖国を訪問、平壌に住む次男を感激させた。先週は伊丹市で写真展を開き、在日同胞の生き証人として資料保存にかける心意気を示した。そこに費やしたお金も労力も果てしないが、妻・陸末伊さん(75)は、いつも温かい笑顔で見守っている。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2004.10.16]