top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮歴史民俗の旅〉 両班(2)

 官吏たちの退勤時間は酉時(午後5〜7時)であった。帰途に部署の同僚たちで酒盛りを交わすのが日常的だった。地位の低い堂下官たちは酒幕を利用したが、高位の官僚たちは官舎か料亭を使用していた。

 朝鮮王朝はこと酒に関しては非常におおらかで、飲酒で失敗してもよほどの失態でもないかぎり罰することはなかった。その寛大さにもかかわらず、司憲府と司諌府の官吏たちに限っては、宴会や私的な酒席の出入りが法律によって禁じられていた。清要職に携わるものはいかなる場合にも冷静沈着であらねばならなかったからだ。

 両班の生きがいは官吏であることだった。とはいえ、あくまで理想。現実には官吏となるものはごく一部で、ほとんどは無官の在地両班として生活していた。朝鮮王朝のもとで両班は、官僚というより、名誉ある特権階級の意味合いが強かった。

 両班たちは生活の信条として「奉祭祀」「接賓客」を重んじた。父、祖父、曽祖父、高祖父の4代の祖先を丁重に祭り、親族や友人など訪問客をねんごろにもてなしたが、その目的は一族の団結にあった。両班の家庭の中庭は、常にマッコリとキムチを漬けた大甕が所狭しと並べられたが、それらは祭祀と接客のためのものであった。運命共同体の両班の家庭にあって団結ほど重要なものはなかった。一族の誰かが科挙に合格して高級官僚にでもなれば、他の者も立身出世が可能になり、反対に、一族の誰かが刑罰を受ければ連座して捕らわれの身となった。

 当時、一族の血縁関係をしるした「族譜」というものがさかんにつくられていたが、それも自らの出自の優秀さを誇り、一門の団結を再確認するものであった。

 次に重要なことがらは、家族の扶養と奴婢の指導監督であった。両班は不労所得者である。自らは肉体労働を行わなかった両班層にとって、自分の手足となる奴婢は不可欠の存在であった。奴婢を所有しないと、両班としての社会的認知を受けられなかったので、奴婢と両班は切っても切れない関係にあった。

 奴婢は両班家庭内のさまざまな雑事を執り行った。女は、炊事、洗濯、針仕事、子守りといった、ありとあらゆる家事を遂行した。男は柴刈り、薪割り、屠蓄、贈答品の運搬、家の修理など、重労働に従事した。とりわけ野良仕事などの農業労働は、奴婢にまかされたもっとも重要な役目であった。

 両班はつとめて両班的生活様式を保持するよう心がけ実践した。両班的生活様式とは、祖先祭祀と客への接待を丁重に行うとともに、日常的には学問に励み、自己修養を積むことである。当時、「両班百行」という一種のマニュアルがあり、それを鏡に修行に励むことになっていたが、形だけで実践されることはなかった。小説「両班伝」は「両班百行」について次のように書いている。

 「両班はつねに午前四時には起きる。書面台に向かって正座する。かかとを合わせて尻をささえる。膝は絶対くずさない。目はいつも鼻の端を見つめる。咳はちいさく、唾は飲み込む。手洗いでは手のひらをこすらず、召使いを呼ぶときは声を長くひきのばし、歩くときはゆっくり足を運ぶ。手に銭を持つことなく、米の値段をきかず、飢えても我慢し、寒さに耐え、暑くても足袋をぬがず、食事のときは冠をかぶり、汁は音をたてて吸ってはならない。箸を使うのは上品に、酒を呑むときは髭をぬらさず、タバコは頬をくぼますように吸ってはならない。怒って妻をぶったり、召使いを叱ってはならない。いつも書を読み、古文を写すときは、小さい字で一行に100文字を書かなくてはならない」

 両班には特権という褒美があった代りに、流刑というリスクも覚悟しなければならなかった。流刑は珍しくなかった。官吏であれ在地の地主であれ、両班は一生に一度や二度の流刑を経験したものたちである。

 朝鮮王朝500年は党争の歴史であった。文治主義のもとでは権力闘争も刀でなく筆舌で行われた。党派間で凄まじい闘いがくり返されたが、議論し弾劾をおこしても武器をとって争うことはなかった。しかし、敗者には政治犯のレッテルが貼られ情け容赦なく流刑に処せられた。

両班に流刑人が続出するには理由があった。朝鮮の両班社会は、個々には一族の集合体でありながらも、全体としては、地域や党派別に系列化されていたので、中央政界で異変が生ずると、田舎の在地両班まで連座して、応分の責任を取らされるのである。

 流刑地は罪の軽重によってきめられた。重罪人は辺境の厳しい自然環境の中に送られたが、軽罪は指定された一定の区域のなかで生活し、近くに家族を住まわせることも許された。一生を流刑地で送るものもいたし、刑期を終えて官吏に復帰するものもいた。冤罪を晴らして忠誠心が認められ出世街道をひたはしるものがいた一方で、党争に辟易して隠遁生活をする者もいた。彼らは政治については黙して語らず、貧しくとも花鳥風月を友とし、道教の仙人のように現実離れの生活をしていた。

 しかし、多くの両班たちは、不本意ながらも流刑を宿命のように受け止め、自分と家族と子孫の名誉のために柔順に従った。むしろ流刑生活を好期と捉え、修行を積み、創作活動や学問の研究に励んだ者も多くいた。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.10.25]