〈人物で見る日本の朝鮮観〉 芥川龍之介 |
芥川龍之介(1892〜1927)は近代日本文学を代表するあまりにも有名な小説家である。 「羅生門」「鼻」「芋粥」などの初期の作品にみられる日本の古典に材を採ったものや、ヨーロッパ、中国に材を求める、その広く、深い学識の豊かさは若くしてすでに定評があった。次々と注目作を発表し、文運隆々と思われていた矢先、彼は35歳の生涯に自ら終止符を打ち、世を驚倒させる。その芥川に幾つかの朝鮮観を示す作品がある。どのような朝鮮観か。 芥川は東京京橋で生れた。父は新原敏三と言った。満一歳に満たない頃、生母が精神を病んで、母の実家の芥川家に引取られやがて養子となる。芥川家は代々江戸城の奥坊主であった。 また、養母は江戸末期の大通(通人の最たる者)と言われた細木香以という人の姪という。つまり、芥川の育った環境は爛熟した江戸末期文化の香気と名残りに包まれた場所であったといえる。 一高を経て東京帝大(英文科)在学中、同好者と「新思潮」(第3次、第4次)を発刊、作品を発表、「鼻」が夏目漱石に激賞された。1916(大正5)年、大学を卒業し、海軍機関学校の教員となるも2年余りで転職、大阪毎日新聞の社友、社員となる。この間、問題作を幾つも世に送り、1923(大正12)年頃は押しも押されもせぬ大家であった。 さて芥川の朝鮮観である。この年、9月1日の関東大震災を芥川は東京府下の田端で迎える。芥川には大震関連文10編あまりあるが、その中の幾つかに、朝鮮人虐殺問題に関わるものがある。戒厳令が布かれた後、彼は菊池寛と「雑談」を交した。「その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○」(不逞鮮人の放火だ−琴)さうだと云った。すると菊池は眉を挙げながら『譃だよ、君』と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、『ぢゃ譃だろう』と云う外はなかった。しかし次手にも一度、何でも○○○○(不逞鮮人−琴)はボルシェヴィッキの手先ださうだと云った。菊池は今度も眉を挙げると、『譃さ、君、そんなことは』と叱りつけた。僕は又『へええ、それも譃か』と忽ち自説(?)を撤回した。再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシェヴィッキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じれれぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。(中略)尤も善良なる市民になることは、−兎に角苦心を要するものである」(「大震雑記」)。 はじめてこの文に接した時、いささか韜晦めいた、独特の文体に潜ませてはいるが、いわば彼の人間的本質とまた、権力と対峙する彼独特の皮肉っぽさを感じたものだが、芥川が『文藝春秋』大正12年11月号に書いた「侏儒の言葉」中の「或自警団員の言葉」を読んだ時は本当に驚いた。 「さあ、自警の部署に就かう」に始まるこの文は最後にこう結んでいる。「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めてゐる。我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、―尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。我我は互に憐まなければならぬ」。「我我は互に憐まなければならぬ」とは日本人、朝鮮人ともに、ということである。共に大地震の被害を受けている、ともに憐み合わねばならないのに血醒い大朝鮮人狩りが始まり、殺した数の多さをほこっている。「況や殺戮を喜ぶなどは」。芥川は日本人の朝鮮人虐殺を憤っているのである。 今一つ、芥川には朝鮮に材を採った「金将軍」という小説がある。「金将軍」は1924年2月号の「新小説」に載った短い小説であるが、内容は豊臣秀吉軍の朝鮮侵略と平壌まで侵攻した小西行長の首を斬る話に関わるものである。行長の首を斬り落すのは、金応瑞将軍という設定である。金応瑞は実在の人物で、壬辰倭乱時、別将として、明の李如松軍と合流し、平壌城を奪還した。李朝時代の戦争小説「壬辰録」は、金応瑞が小西行長の首を斬ったことになっている。もっとも朝鮮の伝承では、加藤清正も晋州の妓生論介によって殺されたことになっている。朝鮮民衆の侵略の象徴としての小西、加藤への民族的憎悪が如何に深かったかが読みとれる話である。 芥川は「金将軍」で「行長は勿論征韓の役の陣中には命を落さなかった。しかし歴史を粉飾するのは必しも朝鮮ばかりではない。日本も亦小児に教へる歴史は、−或は又小児と大差ない日本男児に教へる歴史はかう云ふ伝説に充ち満ちてゐる」として、日本の歴史教科書は、一度も敗戦の記事をかかげたことがないとし、天智天皇2(663)年、日本軍が朝鮮の白村江で唐軍と戦い大敗した事実を「日本書紀」より引用した。そして最後に「如何なる国の歴史もその国民には光栄ある歴史である。何も金将軍の伝説ばかり、一粲(一たび笑うこと)に価する次第ではない。」と書いた。 今の厚顔無恥な歴史粉飾、歴史わい曲の横行を考える時、如何に芥川が先見的にして洞察力に富んだ人物であったかが知れるであろう。 それにしても「況や殺戮を喜ぶなどは」とは。(琴秉洞、朝・日関係史研究者) [朝鮮新報 2004.10.27] |