〈生涯現役〉 80歳まで自転車こぎ新報配達−李恩僖さん |
8月の神奈川コリア文化教室発表会のときだった。関係者の1人が、水色のチマ・チョゴリを着ているハルモニを指して、「総聯20全大会があったつい先日まで、朝鮮新報の配達をしていた」と教えてくれた。かなりの高齢だが…と、不思議に思っていると、「まわりでは怪我でもしたらと心配する声もあったんだけど、本人がけじめをつけたいからと言って」と言い添えた。 植民地下の生活
李恩僖さん(80)は全羅南道光州生まれ。実家は貧しい農家だった。「朝鮮には200年も前から米国人たちが宣教活動をしにやってきて、村中の人々は教会に通い、基督教を信じていた。村には年寄りたちが通う分校もあった。夜学の先生は2カ月くらいするとすぐにいなくなったが、今思えばパルチザンのひとだった」と語る。14歳年上の姉は、米国人宅で家事を手伝いながら勉強した。李さんは学校には通えず、体の弱い母親と祖母を手伝い畑仕事をした。「だから、今でも漢文が駄目。それがとても辛い」と表情が曇る。 日本へ渡ってきたのは20歳のとき。中日戦争が激化し、朝鮮では未婚の若い女性たちが「挺身隊」に引っ張られていた。先に東京に来ていた姉を頼り渡日、それからまもなく空襲を受けることに。姉はふたたび「朝鮮へ戻ろう!」と言ったが、李さんは断った。理由は、「水道とガスがあったから」。「あの頃は若かったからそっちの方が良いと思った」と、照れ笑い。その後すぐに結婚したが、2度の空襲で2回とも家が焼けた。乳飲み子を背負い、千葉県に疎開。お乳が出ずに片栗粉を溶いて飲ませもした。 雨の日も風の日も 戦中、戦後も生活苦は変わらなかったが、いくら貧しくとも、子どもに「教育だけは受けさせたい」と強く願っていた。朝聯の活動家だった夫は昼夜活動に飛びまわり、家にはほとんど戻らなかった。「上の子どもが中学校に上がるとき、朝鮮学校に通わせたいのに定期券代がなかった。それで神奈川県に引っ越した」。4畳半一間で5人暮らし。夫は朝鮮戦争を反対して監獄に入れられた。 「朝聯、民戦は強制解散させられたが、女性同盟は健在だった。夫を取り戻すため闘った」。 子どもを抱えて生活するため、草加せんべいを作り、土方仕事に汗も流した。「土方をやってもらった喘息」を李さんは今も患っている。59年の定期大会を期に、女性同盟の専従として働くことに。帰国事業が始まって、17歳の息子が帰国した。「お金がなくて、新潟まで行ってやれなかった。にぎり飯一つ持たせてやれなかったことが今も胸に残ってる」。 長年の本部や教育会での専従活動を終えて、顧問として支部事務所を訪れたのは60歳のときだった。山積みにされた新報や画報が、トラックに積まれてごみ処理場へ送られる現実に怒りを覚えた。「新報を1度も読まない同胞が、総聯の会費を出すと思いますか?」 その日から李さんは、分会には直接配布し、その他は帯を刷って郵送する作業を地道に続けてきた。朝鮮新報の配達をして14年。 雨の日も、風の日も、「より早く、より多くの同胞たちに祖国と組織、同胞たちの声を伝えるため」李さんは新報を配達し続けた。雨の中、自転車に乗って配達している途中、車と接触するなど4度の交通事故にも遭遇した。「雨の日に、自分は濡れても新報だけはぬらさない」李さんの懸命な姿は、地元で知らない人がいないほどだ。その献身ぶりは、朝鮮中央放送や平壌放送でも取り上げられた。 李さんは、「若い人たちを見ると頼もしいと思う。こんなに立派な若者たちを、同胞のオモニたちが育てたと思うととても誇らしい。文字もわからなかった女性たちが成人学校で学び、朝鮮新報を配り続けた日々がこのためにあったのだ」と確信する。 この夏、80歳で「定年退職」した李さんは、長寿会のコーラスサークルや温泉旅行などで長年の苦労を癒している。(金潤順記者) [朝鮮新報 2004.11.1] |