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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 片山潜

 片山潜(1859〜1933)は、明治の初期社会主義の先達の一人であり、後にはコミンテルン(第3インター)の中央委員となり、国際共産主義運動の指導部にあって各国の共産主義運動に大きな影響を与えた人物として知られている。その片山の朝鮮認識や朝鮮観に関する問題を見てみたい。

 片山は1859(安政6)年、現在の岡山県久米郡久米南町で、父国平、母まちの次男として生れた。家は代々本百姓で庄屋であった。5歳で儒者大村綾夫に漢文を習いはじめた。1872(明治5)年、村に小学校が出来、ここに通ったが、通学百余日にして止めた。学資がなく、母を助けて主として農業に従事し、貧農の苦難をなめる。1880(明治13)年、21歳で岡山師範学校に入学するも、さらに高い学問を志して東京に出る。東京では印刷所の文選士になったり、岡麓門の塾の塾僕になったりして、働きつつ学ぶ生活がつづく。

 1884(明治17)年、渡米した友人の書信により「米国は貧乏でも勉強できる所」と知り、渡米を決意、11月、横浜をたち12月サンフランシスコに上陸、彼のアメリカ生活が始まる。皿洗い、コック、農業労働給仕などの底辺生活で生活費、学費を稼ぎ、エール大学など三つの大学を卒業する。そして、1896(明治29)年1月、「足掛け13年振りの帰国」をしている。抜群の英語力、豊かなヨーロッパ的教養、キリスト教、そして社会主義への傾倒が、身についていた。米国で彼は、ラサール伝を読み、社会主義者になったという。翌年神田でキングスレー館を開設し、彼の旺盛な労働運動、社民主義運動が始まる。演説会、言論活動の毎日である。以後の片山の活動については大幅に省略するが、要するに初期社会主義の先達として、労働運動、組合運動を通して社会主義運動の発展に大きく寄与してゆくことになる。さて、片山の朝鮮認識、朝鮮観である。

 残念ながら、この時期、片山の体系だった朝鮮論は全くと言ってよいほどない。かなり後、「歩いてきた道」という文で、日清戦争前後期に触れたことがある。「1894年の春、朝鮮の自由主義派指導者のひとりで、日本に住んでいた金(玉均)は欺かれて上海に呼ばれ、保守派の手先によって殺された。第二の指導者朴(泳孝)は日本で謀殺されたが(殺されていない−琴)、犯人は逮捕された。(中略)この年朝鮮で東学党が生れ、暴動を起した。五月に蜂起軍は全羅道を手に収め、さらに忠清道を占領しようとした。日本の内部の政争を見守っていた清国は、時至れりと朝鮮の植民地化を企てて、朝鮮に向け軍隊を動かした」。見られるように、片山の朝鮮理解は不正確である。1903(明治36)年末、片山は第2回の渡米を行う。そして、アメリカで日露戦争の勃発を知る。8月、アムステルダムの第2インター第6回大会に日本社会主義者代表としてロシア側プレハーノフと握手し、反戦を誓ったことは有名な話。片山はその後2回渡米するが、1917年11月、ロシア革命に全面的に賛同、コミンテルンが結成されると、片山は指導的地位につき、日本をはじめ、アジア諸国の共産主義運動に関わるようになる。

 その片山に1924年6月に発表された「日本における朝鮮人労働者」という論文がある。日本に移住した朝鮮人数や生活状態や朝鮮人の教育水準、または在日朝鮮人の独立運動、共産主義運動などにも触れ、また、「こんどの震災中に、いわゆる朝鮮人暴動がでっちあげられて、それが六〇〇〇人の朝鮮人の無惨な虐殺の口実になった」と言う。この論文はいくつか不正確な記述はあるものの、日本社会主義者が在日朝鮮人問題をはじめて系統的に論じたものとして意義あるものである。

 同年7月、片山はコミンテルン第5回大会で「民族・植民地問題にかんする討論」に参加し、朝鮮問題で発言、「朝鮮に関しては現在三つの事情を考慮すべきである」として、「第一に朝鮮には大衆運動が発生している」とし、その内容に触れた。「第二に、さまざまな共産主義グループを一つの強力な朝鮮共産党に統合しようとする傾向がはっきりとあらわれた」とし、分派闘争の害を指摘した。「第三に、日本にいる朝鮮人の間に、日本共産党の指導下にある強力な共産主義団体がある」として、その内容を紹介し、「われわれは、日本の共産主義者が、真の国際主義的精神で朝鮮人の革命運動を促進するであろうことを確言する」と言う。今日の水準よりみれば、問題なしとはゆかない面もあろうが、しかし、当年の片山潜が、真の国際主義的精神でこの発言をしたことだけは疑いない。

 ところで、身体のどこかに刺さったトゲのような一文を紹介したい。

 片山潜が出していた「社会新聞」の明治43年9月15日号の「日韓併合と我責任」という一文である。「日韓併合は事実となった。之が可否を云々する時ではない。(中略)朝鮮人に是非共与へなければならない物が一つある、(中略)其一とは何であるか、他なし、日本帝国臣民としての独立心≠ナある。後略)」。引用文は全文の5分の1に過ぎない。全文これ朝鮮人は「未開の人民」だから日本人になれとの説教である。この一文は無署名である。しかし、発行兼編輯人は片山潜なので責任は自ずと明らかである。この一文は「大逆事件」の幸徳らの逮捕に恐怖した「合法主義者」(片山自身の言)が明治権力に、朝鮮をダシにして媚を呈した一幕とみてまちがいない。(琴秉洞、朝・日関係史研究所)

[朝鮮新報 2004.11.10]