「高句麗残照」(上) 幾重にも重なる渡来の波 |
世界遺産に指定された豪壮・華麗な高句麗壁画古墳の照り栄えの陰で、積石塚古墳はあまり多くの人から注目されていないが、積石塚こそは高句麗古代文化を特徴づける存在であった。積石塚というのは、普通の古墳が土を高く盛って築かれているのと違って、埋葬施設の周辺と上に石を積んで、それも単に積み上げたのではなく、方形、円形などに整然と築造したものを言う。 斎藤忠著「古代朝鮮文化と日本」(東京大学出版会)は、つぎのように記している。 「高句麗において、その初期の墳丘は盛土塚でなくて積石塚である。これらは、最初の基盤であった桓仁付近に見られる。地上に河原石を積み上げ、その上に遺骸を安置し、さらに石を積んで墳丘にしたものであるが、遺骸を石棺内に収めたものもある。その後、通溝に都を定めても、積石塚が営まれた。かつて、関野貞博士が、『無慮数万』とも表現した積石塚群が、荒涼たる通溝の山野に起伏している。いかにも、高句麗の発展期の姿相をあらわす如くである」 東北アジアで最も早く国家を形成した高句麗は、全盛時には朝鮮半島の過半を押さえ、北は今日の中国東北部の吉林省、遼寧省の北緯45度以北、南はソウルにも積石塚が残っているように漢江の流域に及ぶ堅固な支配を誇っていた。前述の桓仁(卒本)は、紀元前37年に建国したのちに小国の連合を形成して本拠を置いていた所で、鴨緑江支流の佟佳江流域にある。紀元前13年には通溝に遷都し、204年には輯安(国内城)に移った。 この時期の墓制に支配的位置を占めていたのが積石塚であったが、国の中心が南下して、やがて427年に平壌へ都を移したころから盛土塚が見られるようになり、ついにはその位置が入れ替わることになる。この過程で出現した強大な支配者の墳墓が壁画古墳であった。 しかし、盛土塚が盛んに行われるようになってからも、王陵のようなものは古制を保って積石塚に作られ、将軍塚・太王陵のような巨大な墳墓が造営されたのだ、と前述の「古代朝鮮文化と日本」には記されている。 高句麗の積石塚は方形、円形と前の所に書いたけれど、そればかりではなく、大和朝廷の専売特許のごとくに言われて、強烈な自己愛にひたる一部の日本人から、崇敬のまなざしをもって仰がれている前方後円墳だって、高句麗にはあった。慈江道慈城郡の松岩里106号墳と呼ばれる積石塚は、長軸24メートルの前方後円墳で知られている。 朝鮮民主主義人民共和国社会科学院考古学研究所「高句麗の文化」(呂南普E金洪圭共訳 同胞舎出版)によれば、高句麗の墳墓の様相はつぎのようであったという。 被支配階級は、墳丘基底部の一辺が長さ約5メートル、高さ2メートル程度の規模が小さな貧弱な墓をつくった。支配階級は、墳丘基底部が一辺の長さ30〜60メートル、高さ20〜30メートルにもなる大墓をつくった。このように墳墓の大きさが、被葬者の貧富と階級的差異によって各々異なっていた。 さて、高句麗の古い墓制である積石塚古墳が日本の各地に残っているのは、当然のことながら5世紀前半より前の、故国の墓制が積石塚であったころの高句麗から、多くの人々が日本列島へ渡来してきたことの証しでなくてなんであろう。文化の移動は人の移動であって、文物や墳墓が一人で歩いてくるわけはないからである。 とりわけ、古代の信濃(長野)や甲斐(山梨)には、高句麗系渡来氏族が多かったようで、日本中の古墳に占める積石塚の割合が2%であるのに較べて、長野では30%、山梨で20%もあり、異常な密度で積石塚が築かれていた。 彼らを祖先とするのが今日の日本人である私たちなのだということを認識しなければならないだろう。けれども、こうしたことは高句麗系に限ったことではない。畿内や天皇家の周辺に多かったとされる百済系や、東国に多くの拠点を持っていた新羅系の渡来氏族にしても同様であって、朝鮮半島から渡来した人々こそが、日本人を形成したのである。 高句麗から潮に乗って船で海を渡り、北陸辺りの浜に上陸した高句麗人たちは、川沿いに道をとって内陸に分け入った。そうして、いまの長野県善光寺平の北にある大室古墳群の地から諏訪を経て今日の山梨に入り、北巨摩、中巨摩の丘陵から甲府の東にある横根・桜井積石塚古墳群と寺本廃寺に至る、130キロの広大な地点に新天地を拓いた。これは拙著「高句麗残照」(批評社)で展開した叙事詩であるが、市民権を得るに至っていないのは、多くの日本人の心の底に、皇国史観の残滓が執念深く生きているからに違いない。 それでは、朝鮮半島の古代人たちは、どのようにして日本列島へやってきたか、そうして、いかなる文化を伝えたかについて、これから順次見ていくことにしたい。 (*文中、高句麗の建国、遷都などの時期は、金富軾著・金思Y訳『三国史記』(六興出版)によった) ※びんなか・しげみち 1941年、朝鮮忠清南道大田生まれ。山梨時事新聞記者を経て作家活動に入る。主な著者に「蘇る朝鮮文化」(明石書店)「輝いて生きた人々」(山梨ふるさと文庫)「高句麗残照」(批評社)など。 [朝鮮新報 2004.11.15] |