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〈朝鮮史を駆け抜けた女性たちE〉 実在の医女、李朝実録に10回登場、長今

 宮女―王の私生活が営まれる九重宮闕に囚われの身同然で衣食住に使役される女性を主人公にすえたドラマが話題である。

 「大長今」。10歳で宮女として入内し、宮中一の料理人を目指し努力の末その実力を認められるが、権力闘争に巻き込まれ官婢として済州島に流される。が、医術を学び再び入内、医女になり、李朝11代王中宗の主治医になる。その名声は轟き、李朝実録に「大」の字を冠された「大長今」として記録されるに至る。これが、ドラマの大筋である。
 はたして「長今」は、実在の人物なのだろうか。

 「長今」という名前は、中宗実録に10回ほど登場する。ほとんどが賞を受けた記録で、米や豆を王が下賜したという内容である。それ以上「長今」という宮女については、詳しいことは分かっていない。

 王の主治医であったかどうかはもちろん謎だが、中宗39年(1544年)に「余の病については女医が知っている。お前たちは退出せよ」と大臣達に言ったという記録から、このドラマの脚本家は「長今は王の主治医になったんだと思った」と、雑誌のインタビューに答えている。この解釈について、専門家は懐疑的である。王の「女医が知っている云々」は、「細かいことは余に聞くな、面倒くさい」という意味で、長今を主治医として認めていると解釈するには無理があるという。元来医女は公奴婢から選ばれ、王室の女性達の医療と出産のために養成されたのである。

 また医療関係の仕事がないときには、女性の犯罪者を取り調べたり、宮中の宴に歌舞を披露して見せなければならなかった。そういったことから、中人階級の家からは医女を出すのを渋る傾向があり、そんな事情で特に妓生の娘が選ばれる傾向が強かったという。宮女には大きく、尚宮と内人という種類があり、医女は内人にも属さない「其の他の宮女」という身分で、宮女にも貴賤があったのだ。

 また、「大長今」の「大」の字は、並外れて素晴らしいという意味ではなく、同姓同名の混乱を避けるため、「体の大きいほうの長今」と、漢字で記録したのであろうというのが専門家の意見である。実際、先のインタビューで脚本家は「100%創作です」と、言い切っている。

 宮女の実際は、わからないことが多い。朝鮮王朝最後の皇后であった尹妃に仕えた宮女であった朴昌福、金命吉、成玉艶尚宮は、それぞれ1981年、83年、2001年にこの世を去った。

 また彼女らの証言を元に書かれた資料は淑明女子大教授の「朝鮮朝宮中風俗研究」があるだけで、正史にはほとんどその記録が残っていない。宮女は宮中の秘密に通じているからである。もちろん「經國大典」や、「推安及鞫案」という法廷記録に宮女の片鱗を見ることはできるが。

 だがドラマは、実在の「長今」という宮女を掘り起こし、一般的にはほとんど知られていなかった「医女」の存在を知らしめ、「死体になって初めて宮殿の外に出られる」と言われた宮女の非人間的な境涯に、人々が思いを馳せるきっかけを作ったのである。

 数多の宮女達と同じく、過酷な運命に翻弄されたであろう「大長今」は、自らの医術を磨き、中宗19年(1524年)には「医女大長今の医術が他より少々優れており宮廷に出仕し看病している。一人分の俸給を与えるように」とその生の記録が、李朝実録に記されている。私たちは、つい現代の視点で「偉業」を成し遂げた女性にばかり目を向けがちだが、名もなく、身分もなく、当時の権力者に背いた女性たちをも含めて、「歴史を駆け抜けた女性たち」と呼ぶべきなのだろう。(趙允、朝鮮古典文学研究者)

[朝鮮新報 2004.11.29]