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〈朝鮮歴史民俗の旅〉 姓名(2)

 朝鮮の姓氏、本貫のなかで一番多いのは、後世が特定の人物を始祖に見たてて始めたものである。いずれも当代一流の人物を始祖に奉りその地名を本貫にしている。

 慶州崔氏の始祖は新羅の碩学・崔致遠。12歳の若さで唐に渡って学問し科挙に合格して故郷に帰るが、時の新羅はすでに力尽き秀才の能力は活かされなかった。彼は各地を放浪し余生を伽ー山・海印寺で送った。高麗王朝は彼に死後文昌候を追奉してその能力と功績を称えた。その子孫たちは慶州を本貫とする慶州崔氏を起こしてその姓を継いだ。

 文化柳氏は新羅の豪族で高麗建国の功労者であった車達が始祖である。咸安趙氏の始祖・鼎は高麗の開国壁上功臣、安東権氏の始祖も同じく功労者であった。

 主要な姓氏に限らず使用人口の少ない姓氏も立派な始祖をたてている。木川馬氏は温祚とともに百済建国にたずさわった黎が始祖であったし、塊山皮氏の始祖は朝鮮王朝開国功臣・兵゙判書・得昌であった。

 本貫には中国の聖人君子やその子孫を始祖に置いたものもある。曲阜孔氏は孔子の五三世の孫・紹が起こした姓氏であるが、本貫の曲阜は孔子の故郷魯国の地名である。また、清州韓氏は箕子の四一世の孫・鋭が始祖であるとされている。

 これら本貫は史実に照らして真実であると確認できるものもあるが、神話や伝説となって潤色され誇張されたものもある。また、子孫が意図的に歴史的人物を取り込んで本貫に仕立てたものもあるようだ。

 朝鮮王朝になって、同姓同本の系譜を代々記録した系図である族譜が現れた。一族の血統に箔をつけ、両班階級としての正統姓を誇示する証でもあった。始祖がすぐれ大臣や学者など有名人を多く輩出すれば名門となって権勢を振るった。由緒ある家柄の族譜は数十、数百巻にものぼった。やがて庶民のなかにも広まり、18世紀後半になると、それを持たぬ家庭はほとんどいなくなっていった。

 族譜は一族の来歴などを記した序文に始まる。次に傑出した人物の功績を書き、彼ら祖先の墓などが記載される。その後に一族の系譜図が列挙されるが、系譜に乗せられる人物が、一族のなかの何世代目の誰であるかを明らかにする独特の命名法が、その時代に確立するのである。これが朝鮮姓氏制度を理解するうえで重要な三つ目の鍵となる行列というものである。

 行列とは同じ一族の同一世代の者が、木、火、土、金、水の五行の順に従って一字を共有することによって、一族内の世代の序列を明らかにする文字で、その原理は陰陽五行説に基づいている。

 例えば、永川李氏の場合、一四世から一八世の行列字は、模(一四)、炳(一五)、圭(一六)、錫(一七)、漢(一八)である。これらの文字をあてれば、欽模、炳三、成圭、錫寿、斗漢などと命名されるが、この場合、行列の文字は世代を表し、残りの一字は本人であることの認識文字となるのである。

 見てきたように、朝鮮人にとって姓名は父系血族の構成メンバーであるという証であり、個人的には、自分の出自と置かれた位置を歴史のなかで表わす、もっとも重要なアイデンティティーである。ひとむかし前まで、朝鮮には絶対守らなければならない重大な約束をするとき、「破れば姓を変える」という悲壮な誓いを建てるならわしがあったが、このことは、朝鮮人にとって姓名は命ほど大切なものであったことを物語るのである。

 今日、社会の近代化が進むなかで、姓名をとりまく環境が大きく変わり、族譜や行列に対する関心も薄くなりつつある。血縁主義の時代は遠のき、人々は自らが主人となって運命を切り拓いて生きているのだ。にもかかわらず、朝鮮人は姓氏と本貫だけは変えることなく引き継いでいる。

 朝鮮の姓氏について語る時、日本が強要した悪名高い「創氏改名」を避けて通ることが出来ない。「創氏改名」は、一九三九年一一月、「朝鮮民事令改正」という法令のもとで断行されたが、その目的は朝鮮固有の姓名を日本式にかえさせることで、朝鮮民族を抹殺し日本人化、皇国臣民化をおし進めることにあった。

 もちろん朝鮮人は「創氏改名」に反対して闘った。断固反対を貫いて投獄されたり、職を奪われたり、徴兵徴用にかりだされた人もいた。時の朝鮮総督南次郎に対抗して「南太郎」と付けたり、日本の天皇の名をもじって「裕川仁」と付けて抵抗の意志を表わした人もいた。

 また、なんとか日本名のなかに固有の姓を残そうと、「金本」、「張本」、「安本」を名字に付けたり、本貫を氏名にして「水原」、「星山」、「玉川」を使う人々もいた。いずれにせよ、創氏改名は屈辱であったので先祖に申しわけなく、自ら「犬子」と付けてわびのしるしにした人もいた。

 しかし、「創氏改名」は一時の出来事で、祖国の解放とともに日本名は捨てられ、祖国では南北とも伝統の姓名がよみがえっている。唯一、在日同胞社会だけが通名という形で「創氏改名」の屈辱を引きずっている。やむをえないとはいえ、はなはだ残念なことである。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2004.12.5]