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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 吉野作造(下)

 吉野は1916年6月号の「中央公論」に「満韓を視察して」というかなり長文の論文を発表する。これは、吉野にとって、その朝鮮認識において大転換をなす第二段階の始まりをなす論文であった。吉野は1916年3月末から4月中旬まで満州と朝鮮を視察しての経験を論文にまとめたものである。その論旨は武断治政の実態を朝鮮での各部門ごとにあばき出し、日本政府、または総督府の基本方針たる同化主義に疑問を提起したことである。吉野はいう、「善政をさへ布いて遣れば、彼等は全然無条件に日本の統治に満足するものなりと断定するならば、是れ独立民族の心理を解せざるの甚しきものである。」「予−個の考としては、異民族統治の理想は其民族としての独立を尊重し、且其独立の完成によりて結局は政治的の自治を与ふるを方針とするに在り」と。そして、また、「相当に発達した独立固有の文明を有する民族に対して、同化は果して可能なりや」「事毎に朝鮮人を蔑視し虐待して居るやうでは、到底同化の実を挙ぐることは出来ない」と。もとより、吉野は朝鮮の独立を求めたのではない。独立問題では吉野に最後まであいまいさの残ることは事実だが、3.1運動前に日本人にしてこの主張あるは特筆すべきことである。その朝鮮に3年後、「3.1独立運動」が勃発する。吉野は「中央公論」で「我々の差当り当局に希望する所は、一視同仁政策の徹底である」といい、「一視同仁政策の必然の結果は、鮮人に或種の自治を認める方針に出でなければならない」(「朝鮮暴動善後策」、1919年4月号)という。このほか、吉野には「水原虐殺事件」などの関連文があるが、注目すべきは「朝鮮統治の改革に関する最小限度の要求」(「黎明会講演集」第六輯、1919年8月号)で示された彼の発言内容であろう。

 彼は、3.1運動に関連して「朝鮮の統治を将来何うするか」という点で4つの問題を提出する。「第一は、朝鮮人に対する差別的待遇の撤廃」「第二は〜武断統治の撤廃」「第三は所謂同化政策の抛棄」「第四に言論の自由を与へよ」の4点である。吉野は4つの各項に詳細な説明を付しているがその主張の最大の特徴は、朝鮮統治の誤りに対し、何らの反省も示さない政府および総督府、そして言論界や日本国民に対するきびしい指弾である。また「支那・朝鮮の排日と我国民の反省」(「婦人公論」8月号)では「朝鮮統治は余りに独立民族たる朝鮮人の心理を無視したものであった」とまで言う。

 1919年11月、原内閣は上海臨時政府の要人呂運亨を東京に招き、田中義一陸相らを会見させた。日本政府は呂運亨を何とか懐柔し、丸めこもうとしたものだが、相手は役者が一枚上だった。絶好のチャンスとみて、公然と朝鮮独立要求を内外の新聞記者に訴えたのである。ここに至って野党や言論界は政府攻撃をした。反逆者を優遇したというのである。吉野に「所謂呂運亨事件について」(「中央公論」1920年1月号)という一文がある。「朝鮮独立の計画は日本の国法に対する叛逆の行為たるに相違ない」。しかし、「国法の権威よりも、国家其物は遥かに重い」と説き、また、日本統治に反対するからといって、「不逞呼はりするのは余りに軽率である」といい、「呂氏の説く所の中には確かに一個侵し難き正義の閃きが見える、〜其品格に於て、其見識に於て、予は稀に観る尊敬すべき人格を彼に於て発見した」とまで言うのである。

 次に注目すべきは関東大震災下の朝鮮人虐殺問題についてである。吉野日記1923年9月3日条に「此日より朝鮮人に対する迫害始る。不逞鮮人の此機に乗じて放火、投毒等を試むるものあり、大いに警戒を要すとなり、予の信じる所に依れば宣伝のもとは警察官憲らし。無辜の鮮人の難に斃るる者少らずといふ」と書きつづけて、巡査ら数10名が朝鮮人らしき人物を捕えるや「民衆は手に手に棒などを持って殺して了えと怒鳴る、苦々しき事限りなし」と書く。吉野は「中央公論」や改造社版の本などに虐殺事件を精力的に書くが、当局によって全文削除されたりする。「朝鮮人虐殺事件について」(「中央公論」11月号)で「手当り次第、老若男女の区別なく、鮮人を鏖殺するに至っては、世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱ではないか」と書いた。また、1924年7月9日条の日記で学生より、去年9月、千葉における朝鮮人一家3人の虐殺に関わる話を聞いてこれを記録している。これは虐殺証言中の新事実である。吉野における朝鮮認識の第二段階は、この数年後までと思われる。

 吉野の朝鮮認識の第三段階は晩年のことである。吉野は1933年3月18日に世を去ったが、その4カ月程前に「リットン報告書を読んで」(「改造」1932年11月号)という文章を発表している。ここで吉野は「満州問題に対する日本帝国としての方針は既に定まった。〜一旦、国是方針が斯う定まった以上国民の一人としては全然これに遵ひ飽くまで既定方針の完成に協力せなければならない。」吉野は「満州国」を認めたのである。「満州国」承認は植民地朝鮮の肯定が前提である。ここに吉野朝鮮論の破綻が明示されたことは、彼自身の朝鮮認識の不徹底さからとは言え、惜しみても余りあることである。(琴秉洞、朝・日関係史研究者)

[朝鮮新報 2004.12.8]