〈朝鮮史を駆け抜けた女性たちF〉 星州李氏 |
1592年、壬辰倭乱。官吏であった金善敬の妻であり、李Wの娘である星州李氏は、秀吉の軍を避け娘を連れ避難する中、襲いかかる秀吉の軍に抵抗するが、あえなく捕われてしまう。賊軍の兵士達は李氏の手首を掴み、衣服を剥ぎ取り、その体に触れようとするが、彼女の必死の抵抗にあう。偶然味方によって助け出された李氏は、その若者が当時の官吏で夏氏の姓を名乗る者だということを知る。李氏は重ねて礼を述べ、娘のことを彼に丁重に頼むと、賊軍に汚された手首と、乳房をその場で刃物で切り落とし、自決してしまう。 後の王は李氏の守節を讃え、彼女を「烈女」として旌閭門を建て、これを表彰。1742年のことである。今も残る旌閭門とは、忠臣、孝子、烈女などの行いを表彰し、その村の界隈に建てられた門のことである。「烈女」として表彰されたので、「烈女門」とも呼ぶ。各地に現存する。 娘ともども助けられたのに、なぜ李氏は自らその命を絶ったのだろうか。 朝鮮王朝時代は、その初期から女性の「婦徳」を奨励するため、「三綱行實圖」(1434)や、「續三綱行實圖」(1514)を、壬辰倭乱の孝子や忠臣、烈女の行いを奨励するために「東國新續三綱行實圖」(1617)などを刊行し続けた。 では「婦徳」として高く表彰された「烈行」とは、一体どういうものだったのだろうか。 ひとつは「守節」といわれ貞操を守ることであった。夫の死後、再婚しないというものだが、ときに婚約者や恋人を亡くした場合も、これにあてはまる。とくに、封建社会の瓦解期といえる18世紀以降は、家父長制の強化とあいまって「守節」を表彰することが多かったという。 毀節、すなわち李氏のように貞操の危機に瀕した場合、死をもって抵抗することも「烈行」である。これを「殉節」という。自分の潔白を証明する、唯一の手段でもあった。 もうひとつの「殉節」は、夫の死後、その後を追うことである。残された子どもや、年老いた親の面倒を見る者がいる場合、比較的早くに後を追い、そうでない場合は、子を育て上げ、両親を看取った後、自らの命を絶つのだ。とくに後者は、「女の義務をすべて果たした」後の「殉節」であるから、より一層評価され、賛えられもした。 復讐や献身も、「烈行」の対象である。殺害された夫や親の仇を討つことは、実際には「殉節」よりも困難だったので、高く評価された。また病床の夫や、災難に見舞われた夫のために死ぬまで祈ったり、その身を犠牲に捧げたりした。 「烈行」のもうひとつの行いは身体の損壊である。これは19世紀以降に多く行われ、夫の命を救うため、自分の肉をそぎ落とし焼いて食べさせたり、自分の血を絞り夫に飲ませたりすることである。多くは迷信に左右されたようだが、なんとしてでも夫の命を助けたいとする、壮絶な行いであった。 国家が政策的に施行した女性教化は、このように自分の血肉さえ夫のために投げ出す人々を量産したのである。 門を建て表彰するだけではなく、米や布地などの下賜、家長や子らに対する税金の免除、身分の引き上げや出世の後押しなど、女性の「烈行」には一門の名誉だけではなく、その褒美として経済生活への援助という目に見える形があったので、一層女性の犠牲と献身が極端なまでに求められる風潮が蔓延したのである。これは一種の社会的強制でもあったのだ。 李氏は助かったにも拘らず、いや、衣服を破られ「暴行されたかもしれない」と疑われる状況の中、夏に「見られた」ので、潔白を証明するために乳房や手首まで切り落とした末、死を「選ぶしかなかった」のである。夫や子、家門の名誉とその将来のために。 「烈女」の存在は人間悲劇の最たるものであり、女性の従属と人間性の剥奪の極致とも言えよう。ただ、もう一方では、女性の存在価値を深刻な形で提示し、認識を迫る役目を果たしことも事実である。「烈女」の記録は、女性の果てしない自己犠牲の軌跡であり、新しい世界に向けた静かな叫びでもある。(趙允、朝鮮古典文学研究者) [朝鮮新報 2004.12.20] |