〈女子サッカーアテネ五輪アジア最終予選〉 朝鮮3位、「敗北を糧にレベルアップめざす」 |
既報のように、女子サッカーアテネオリンピックアジア最終予選が4月18〜26日にかけて行われた。グループAに入った朝鮮は台湾、香港、シンガポールを相手に3戦全勝。しかし「朝鮮有利」の声が高かった準決勝では、日本にまさかの敗北を喫した。2000年のシドニーオリンピックに続き、今回もオリンピック出場を逃した。広島、東京の会場には連日、在日同胞応援団が詰めかけたが、あと一歩及ばず3位止まり、南朝鮮は4位だった。9日間の大会を振り返った。(文=金明c記者、写真=廬琴順記者) 予選3試合を圧勝
大会前から優勝候補の筆頭にあげられた朝鮮チーム。1989年の第7回大会から出場しているアジア女子選手権では、準優勝2回(93、97年)、優勝2回(01、03年)、FIFA女子ワールドカップにも2度出場(99、03年)している。 オリンピックは、前回のシドニー出場を逃しているだけに、今大会への意気込みは並大抵ではなかった。 準決勝で日本と対戦することは当初から予想されていたが、「1戦1戦を大事に戦う」というウォン・キョンハク監督の言葉通り、選手らは慢心せずに着実に勝ちを重ねていった。
予選3試合の朝鮮は強かった。チームシュート数は台湾戦31本、香港戦51本、シンガポール戦55本と、計137本もの乱れ打ち。1試合平均得点は7.3。フィジカルの強さも群を抜いていた。 競技場内のエレベーターの中で日本の記者が、「実力は相当なものですね。控えがしっかりしているのもわかりました。日本の守備陣が右サイドを突破されている映像が目に浮かびますよ」と語っていたほどだ。 3戦を終え、エースのチン・ピョルヒ選手は、「日本戦には必ず勝ちます。同胞らの期待に応えたい」と笑顔で語っていた。他の選手らもリラックスした様子だった。ホテル生活が続くとあって体調を崩さないように、広島の同胞らもたびたび激励に訪れた。グループ予選を戦うチームはみな同じホテルに宿泊し、そこで食事を摂った。体調不良の選手はとくにいなかった。顔なじみの南の選手らとは会話も弾んでいた。 「われらの願い」合唱
しかし、準決勝では日本に0−3とまさかの敗北。地に足がつかず、浮き足立っていた感は否めない。とにかくディフェンダーの動きが固かった。サイドからの突破を簡単に許す場面が何度もあった。皮肉にも日本の記者が言った言葉が逆になろうとは…。 目下7連勝中の相手とはいえ、過信はしていなかったはずだ。2万人を超える日本のサポーターの大声援にのまれて緊張していたのか、徹底的に研究されていたのか、日本の実力が上だったのか…。 ウォン・キョンハク監督は、敗北の理由について記者会見で一言。
「選手たちは過度に緊張していた」 南朝鮮との3位決定戦は、5−1で勝利。会場には総聯、民団同胞らの「われらの願い」の歌声が鳴り響いた。ピッチで戦った22人の北南の選手が手をつなぎ、観客に駆け寄り手を振っていた。「これが決勝だったらよかったのに」。涙ぐむ同胞もいた。 3位決定戦後の記者会見で、「女子サッカーの勢力地図が今回で変わったと思うか」との中国人記者の質問に対し、ウォン監督は、「変わったとは思わない。ただ、優秀な選手がアジアから出てきていることがよくわかった。今後の目標は次のアジア大会と08年のオリンピックだ」と意気込みを語った。 「多くの勇気もらった」
日本滞在最後の夜、広島市内のホテルで歓送会が行われた。選手たちを元気づけようと、同胞たちはみんなで歌い踊り、記念写真を撮るなど場内は和やかなムードに包まれた。準決勝敗北のショックが大きかった選手たちの顔にも徐々に笑顔が戻り始めた。 主将でゴールキーパーのリ・ジョンヒ選手と今大会、得点王を獲得したリ・クムスク選手は、「本当に同胞たちに申しわけない気持ちでいっぱい…。けれども次の大会では必ず日本に勝ちます」と唇をかみ締めた。「今日が最後の日なのに、笑って乾杯しましょう」。一番悔しいはずの選手たちが、逆に周囲の人たちに気を使っていた。 女性同盟岡山県本部副委員長(非専従)の李咲姫さん(65)は、「日本に負けたのはとても悔しいけど、次のオリンピックに向けてがんばってほしい。本当にたくさんの勇気をもらった」と語っていた。 Jリーグ・サンフレッチェ広島の李漢宰選手は、準決勝戦をこう分析する。 「スポーツに敗北はつきもの。たしかに今回の朝鮮は実力を出し切れていなかった。同じ実力のチームとやる時は、小さなミスが大きな敗因につながる。いい意味での負けととらえ、次のレベルアップにつなげればいい」 広島の同胞、朝鮮学校の生徒たちは4日間、会場に駆けつけた。東京国立競技場の準決勝戦では、バックスタンドの同胞応援席が真っ赤に染まった。 全国から駆けつけた同胞たちの声援は、確実に選手たちの心に響いていた。朝鮮女子サッカーはまだまだアジア最強のレベルにある。次のアジア選手権制覇、08年北京オリンピック出場に向け、選手たちはすでに気持ちを切り替えていた。 [朝鮮新報 2004.5.7] |