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阪神・淡路大震災から10年 祖国の愛、同胞たちの熱い支援が力

総聯兵庫県本部に設けられた常設展示「復旧10年」を見る著者

 2005年、今年こそ明るい希望あふれる幸運の年であるよう念じつつ、再建から躍進へ、本格的復旧、復興へ、と立ちあがる原動力となったのが、当時の兵庫県下、同胞の合い言葉がんばろう≠ナあった。

 1995年1月17日、午前5時46分、神戸阪神間を襲った大地震は、兵庫県下の多くの同胞たちにも、深い悲しみと苦しみを与えた。

 史上未曽有の被害をもたらした大地震の猛威は、いまなお同胞社会に、甚大な人的、物的損失を及ぼした。顧みるに、祖国統一の日に、故郷に帰ることを一日千秋の思いで夢見ていた一世の同胞たちを、卒業を目の前に控えていた朝鮮大学生の青春を、元気一杯だった6年生の男児の命を奪い、異国の地で、言い尽くせない差別にも負けず、歯をくいしばって裸一貫で、無から有を築きあげた工場や、店舗を一瞬に潰し、焼き尽くした。

 それが、阪神・淡路間、とくに同胞密集地帯の、神戸市長田の工業地帯であった。また、日本で生まれた子どもにこそ母国語と民族の心を伝えたいと、血のにじむような努力で守られてきた朝鮮学校の校舎を破壊した。

 しかし、地震は、朝鮮学校で学ぶ生徒たちの心まで奪うことはできなかった。

 地震の直後、朝鮮から送られてきた慰問電報、100万ドルの義援金は、被災同胞たちに計り知れない喜びを与えた。被災程度に応じ、被災者ひとり一人に配分された。義援金を受け取ったある同胞は、総聯、民団関係なく、このような配慮には、述べる言葉がありませんと意を伝えた。

 地震当日から援護物資を持って、駆けつけてきてくれた同胞たちの心あたたまる姿。避難所となった東神戸、西神戸の朝鮮学校で、日本人と朝鮮人が共に助け合って生きる、身にしみる光景は、私たち全同胞、そして、生徒たちに新しい時代の夜明けを示してくれた。

 あの悪夢の日から、はや10年の歳月が流れた。

 地震直後、道路も電車路も寸断され、交通は麻痺状態であった。2号線は通れない。尼崎から神戸間の旧国道、または山の下のもう一つの道路、細い道を西宮、芦屋、灘、三宮、長田間の一帯は、倒壊の建物、燃え尽きる煙が充満していた。尼崎の自宅を出たのは、早朝7時頃であった。歩く足も意のままにはいかなかった。でも、瓦礫の中を歩いた。

 新長田に着いたのは、午後1時半が過ぎていた。

 とりあえず、新長田駅に近い神戸ゴム資材協同組合(ガソリンスタンド)の事務所を訪れた。事務所の建物は、2階建ての鉄筋で、被災を免れた唯一の建物であった。

 そこでしばらくすると、組合の朴進常務が身を震わせながら事務所に現れた。

 彼は、三宮の自宅から駆けつけ、被災にあった同胞の家や工場を廻り、あまりの惨禍に、身の置き場がなかったと話していた。協同組合の理事長の工場も焼失していたといった。

 私は、震災の翌日もまたその翌日も現場に行き、知人の家や工場、そして東神戸、西神戸の学校や支部、本部にも訪れて、いろいろな話を聞いた。私は当時、大阪の組織に属していたので、しばらくの間、疎遠にしていた事情もあった。

 いま、当時の惨禍を再び思い起こすとき、命を守るため、命がけに駆け廻っていた人々の姿を想起する。長くもあり短くもあり、どのようにしてこの10年の歳月を過ごしてきたのか、という思いと、震災時の多くの出来事が頭に浮かんでくる。

 被災した多くの人々が体験した恐怖と不安、胸をかきむしる悲しみと、やり場のない怒り、虚無と虚脱の日々…。多くの人々に支えられ、互いに励まし協力しあい、苦難を乗り越えようと頑張った日々…。そして生活の希望を見つけるため、共に活力と生命力を必死に注いだ日々…。思いは尽きない。

 被災した私たち同胞も、被災した日本の人々と共に、悲しみ、苦しみながらがんばってきた思い出など…。

 私たちは、震災後、祖国と総聯、多くの同胞たちと心ある多くの日本の人々からの励ましと支援で立ちあがったのである。

 とくに、全壊した東神戸、伊丹の学校が、県下同胞の総力によって、以前にもまして立派に再建されたことにより、民族教育の正当性を内外に広く示したのである。

 そして震災直後、地域の300人以上の住民が、東神戸初中級学校に避難してきた。常時150余の人々が生活していた。そのうち、同胞は50人くらいで、あとは日本の人たちであった。それにもかかわらず、朝鮮学校は、避難所には指定されていなかったので、始めのうちは行政からの救援はなかったが、総聯の救援活動はとても素早く、その日の夕方には暖かいにぎりめしや、食料品、毛布など、いろいろな物が次々と届けられた。

 それらの食料や品物などを、朝鮮人、日本人と分け隔てなく配り、多くの日本人が涙を流して感謝していた。

 そんな状況の中で、教員たちは、校長先生を先頭に、生徒たちの安否の確認状況が判明すると、次は授業をどうするのかで余念がなかった。

 そしてまず、支部やスクールバスを利用しての移動教室、それから仮設校舎が完成するまで、西神戸、阪神など、隣接する朝鮮学校に生徒を振り分けて、分散授業にした。

 当年3月13日から仮設校舎が開校し、やっと東神戸初中に子どもたちの笑顔が戻ってきたのであった。

 そして7月19日に、最後の避難者が学校から出て行った。66歳の日本人男性であった。

 夏休みに入ったある日、朝鮮学校の復旧に役立ててほしいと、ある日本人から500万円の支援金が寄せられた。千葉で小学校の教師をしている夫婦で、新聞やテレビで朝鮮学校が困っているのを知り自宅購入資金である貴重な500万円を「たまたま今使わないお金があったので、必要としているところにもってきただけです」という温かい言葉を添えて送ってくれたのだ。

 その後、朝鮮学校の再建にかつてない多くの日本の人々が関心を寄せ、応援してくれた。毎月欠かさず送金してくれる和歌山の久保さん、月に一度、街頭に出て署名とカンパなどで集められた大金を、東神戸初中や、その他の朝鮮学校に寄せられた「朝鮮学校を支える女たちの会」の山村ちずえ代表の他、大勢の方々、そして個人や団体などから惜しみない支援が寄せられた。

 震災で被災した朝鮮学校など、外国人学校に対し、国(日本政府)が「特例」として打ち出した私学並の「復旧費用の半額補助」が決まった。朝鮮学校の場合、約12億円の建設費が必要であったが、国の査定では、8億円であるので、実際には3分の1程度しか支給されなかった。残りの建設費のことを考えると、再建はとても困難な状況であった。しかし、学校はなんとしても再建しなければならないと心新たに決心したのである。

 これ以上仮設校舎では、生徒たちに明るい未来はないと、オモニたちも少しでも建設の足しになるようにと、キムチや洗剤の販売、アルミ缶の回収など一生懸命に取りかかった。

 日本当局の差別により、公立学校並の特別救済補助が受けられない厳しい状況の中、待望の新校舎の起工式が、1996年3月10日に行われた。やっと一つ目のハードルが越えられた思いだった。

 震災後、何度も神戸にこられ、私たち同胞の生活を心配され激励してくださり、犠牲にあった同胞の家庭までも訪問され、「私たちの学校のことはいっしょにがんばって行こう」と約束してくださった李珍珪第一副議長と共に、起工式をいっしょに迎えることができなかったのが、とても淋しく残念でならなかった。東神戸新校舎建設委員会の金士哲事務局長は「毎日送られてくる郵便振替の通知書、現金書留、激励の手紙を手にするたびに、多数の日本の人々の民族をこえた支援に、心のぬくもりを感じずにはいられない。

 住所も名前もわからない方々に、私たちの感謝の意をどのように伝えられるのだろうかと、思案の日々である」と話していた。この言葉は、みんなでがんばろうという、兵庫県下の同胞たちの気持ちを代弁しているかのようである。

 その後、東神戸朝鮮初中級学校は、神戸朝鮮初中級学校に改称され、再出発している。また、伊丹朝鮮初級学校も立派に再建され、管下同胞たちの心のよりどころとして、子弟たちの学びの場として愛され、世代から世代を越えて連綿と受け継がれている。

 阪神・淡路大震災から10年を迎えた総聯兵庫県本部は、多彩なイベントを進めている。

 その一つが、総聯県本部1階に広く改築した常設展示場である。そこには、今震災から10年間の足跡を写真や、文献資料、いろいろな感想文など、一堂に集めて展示し、内外の人々に広く紹介している。この展示会は、必見に値するであろう。(李大煕、社協中央顧問、兵庫県同胞長寿会常任顧問)

[朝鮮新報 2005.1.21]