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ボクシング世界王者輩出 千里馬神戸ジムの千里馬啓徳会長

 4月16日、東京・日本武道館で行われたWBC世界バンタム級タイトルマッチで、同級4位の長谷川穂積選手(24)が14回連続防衛中の同級王者、ウィラポン・ナコンルアンプロモーション選手(36、タイ)を判定で破り新チャンピオンに輝いた。長谷川選手の所属は「千里馬神戸ボクシングジム」(神戸市中央区)。今から約20年前、「チョンリマ(千里馬)」の愛称で親しまれたボクサー千里馬啓徳さん(本名=金啓徳、47)が同ジムの会長だ。

妻と二人三脚で

千里馬啓徳会長と妻の玉清美さん

 神戸市中央区生まれの在日朝鮮人3世。同胞で4人目の元日本ミドル級王者だ。

 20歳からボクシングを始め、21歳でプロデビュー。現役ボクサー時代から在日朝鮮人であることを公言していた。1983年1月にタイトルを奪取し、2年間で5度の防衛に成功。

 85年の東洋太平洋ライトヘビー級タイトルマッチでゲリー・バブル選手(オーストラリア)に敗れ、引退を表明した。当時27歳。戦績は12勝(7KO)8敗。

 翌年の86年1月にジムを設立。マネージャーの妻・玉清美さん(47)と2人3脚、小さなプレハブ小屋での出発だった。その後、15年前に現在の場所にジムを移し、20年目にして世界王者を輩出した。

 「ここまで来られたのはボクシングが好きだから。もう一つは妻の清美がしっかり支えてくれたおかげ」

ボクシング、仕事、朝青

日本ミドル級王座獲得後の3度目の防衛戦(右が千里馬会長)

 神戸朝鮮高級学校を卒業。バスケットボール部に所属。卒業後も兵庫朝鮮籠球団で活躍した。

 「スタミナを養おう」と神戸拳闘会の門を叩いたのが20歳の時。当時の谷崎会長にみっちり教えを受け、その楽しさや魅力にのめり込んでいった。

 現役時代のスケジュールは、朝5時に起床しロードワーク。その後、ダンプカーで仕事に出かける。夕方は火、木、日の週3回、5時から7時まで籠球団の練習。その後ジムに出かけて練習を積んだ。朝青東神戸支部の活動もバリバリこなした。80年11月には朝青代表団の一員として祖国を訪問している。

 朝青時代、こんなことがあった。

 「『新しい世代』読んだよ」。デビュー戦の相手、水原茂雄選手(大阪帝拳)が計量の際にこう話しかけてきた。

 「新しい世代」とは、1960年2月に母国語を知らない在日同胞青年向けに創刊された雑誌だ。千里馬啓徳会長が同誌に紹介されたのを水原選手が読んでいたのだ。

 「実は朝青の対象者だった。それがデビュー戦の相手だったんでびっくりした」

 試合は3回KOで千里馬啓徳選手の勝利。ジャンプして右ストレートを振り落とす「ジャンピング・パンチ」で前代未聞のKOシーンを演出した。

 「第2戦から水原選手は本名の『白茂雄』でリングに上がったんですよ」

 本名で堂々と戦う「千里馬啓徳」の姿に影響されたのかもしれない。

「朝鮮民族」として

 「千里馬」は、一日に千里を駆けると言われる朝鮮の伝説上の馬だ。

 「自分は朝鮮民族としてリングに上がる。だから日本人が見たら一風変わった名前で、しかも同胞には一発でわかる名前がいい」―リングネームの由来だ。

 厳しい試合も多かったが、「イギョラ! チョンリマ!」。同胞たちの声援が体を突き動かした。

 ミドル級タイトルに初挑戦して敗れた時のこと。ガンと戦う在日の中学生、申基峰くんから手紙が届いた。

 「世界チャンピオンになってください」。

 見舞いに行った病院先で交わした約束。「この子のために必ずチャンピオンになろう」と誓った。しかし、3度目の挑戦で83年に日本王者になった時、申くんはすでに亡くなっていた。

 今回、教え子が世界王者になったことで「約束を果たしたよ」と申さんの家族に報告するつもりだ。

 「国籍、人種とか関係なく、男が一対一で話ができるもの。それがボクシング」が持論。
 初の世界戦に向けて作ったTシャツの背中には「GAMBLE(ギャンブル)」という文字が書かれてあった。「世界戦はとにかく『賭け』でしたから。夢は叶ったが本番はこれから」。

 「千里馬」として、少しは同胞たちに朝鮮人として生きる夢を与えることができたのかもしれないという会長。

 「まだまだ通り道。ボクシングを通して夢を与えることが自分の使命ですから」(金明c記者)

[朝鮮新報 2005.5.19]