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イギョラ! 安英学!-4-〜日朝の架け橋〜 献身的なプレーで魅了

安選手の後援会主宰で行われたミレフェスティバルでの学校支援チャリティー握手会(2003年10月19日、新潟初中)

 99年にJ2リーグが発足。03年、アルビレックス新潟はJ2初優勝とJ1昇格を決めた。サッカー不毛の地≠ニ呼ばれた雪国の新潟だが03年、Jリーグ史上最高の年間66万7447人の観客を動員した。熱狂的なサポーターを抱えるそのクラブチームで02年、安はJリーガーとしてデビューした。

 「立正大学サッカー部当時、アルビレックス新潟の強化部長が1学年上の主将を見に来た。その時、たまたま自分も目に留まったようで、『来年見てみよう』と声がかかった。4年の時に練習参加の要請を受けた。それが入団のきっかけになった」

 ビッグスワン(アルビレックス新潟のホームグラウンドの名称)こけら落としの京都戦に招待され、「J2なのにこんなたくさんのサポーターがいるんだ…。入れるんだったら絶対ここでやりたい」と思った。

 J2開幕戦から、スタメン出場を果たした。

 「プロとしてピッチに立って『やっとこの場所に立てたんだ』って感動した。J1でピッチに立った時よりも新鮮というか、やっとプロになったんだという気持ちが強かった」

「これ!AN後援会」が作成した応援横断幕。02年第35節の川崎戦で決めた25メートルのミドルシュートをモチーフに、新潟同胞と日本人らが心を一つにして応援しようという意味が込められている

 02年はJ2リーグ3位。03年はケガに泣かされ出場機会に恵まれなかったが、J1に昇格した04年には定位置を獲得。献身的なプレースタイルと人柄が同胞、日本人らを虜にした。

 02年9月、拉致問題の発覚は、朝鮮と日本をつなぐ玄関口である新潟の同胞社会に暗い影を落とした。新潟朝鮮初中級学校に相次ぐ脅迫電話、ホームページの閉鎖、ミレフェスティバルの中止…。そんな中、同胞社会に勇気を与えてくれたのが安の存在だった。

 「あの大変な時期に『安くんは新潟の誇りだ』と言う日本人がたくさんいたのが本当にうれしかった」

 こう語るのは、当時、安英学選手後援会・「これ!AN後援会」代表(現在は解散)で朝青新潟県本部委員長だった呉泳珠さん(32、現・総連千葉県本部教育副部長)。

 当初は、純粋に同胞らだけで安選手を応援しようと始めた。02年6月15日にWEBサイトを立ち上げ、会員を募集したところ、多くの日本人サポーターが入会してきた。安選手が新潟に在籍した3年間で、会員数は330人に上った。

 03年4月の後援会第1弾のイベント「激励会」を同胞焼肉店で開いた。集まった会員は60人。安選手を応援する同胞と日本人の初の顔合わせの場所だった。

 「日常的に日本人と交わる事なんてなかったからいい機会だった。互いの理解を深め合えるという意味でも。英学を応援することで同胞と日本人のサポーターが一つになれた」(呉さん)

 一方、安が出場する試合には毎回欠かさず足を運んだという新潟初中の李辰和校長(46)。教育者の立場から、「子どもたちに力をあげようと何度もハッキョを訪れる姿を見ながら、彼のような生徒をたくさん育てたいと思った」。

 同後援会の会員で安選手の熱狂的なサポーターの一人、沢栗裕美さん(45)は3人の子どもを抱える母親だ。

 新潟のサポーターには家族連れが多い。英学ファンの親が「17番」のユニフォームを着させる。そんな影響でサッカーを始める子どもも多く、沢栗さんの息子もそうだった。

 「彼は手を伸ばせば届くような存在。いつの間にか引きつけられて気づいたら不可欠な存在になっていた。自分にも子どもにも、サッカーの楽しさを教えてくれた」

 沢栗さんはさらに続けた。

 「在日だから、日本人じゃないからとか関係なくて、一生懸命プレーする姿にみんなが魅了された。会員の日本人は安選手を盛り立てていきたいという人たちばかり」

 朝青新潟県本部副委員長の鄭晋浩さん(24)は、朝青新潟で仕事することが決まってすぐの1週間後に、第1弾イベントに参加した。

 「たくさんの同胞と日本人が仲が良いのに驚いた」。そんな鄭さんも安選手の魅力にとりつかれ、「人生において影響を受けた人」と振り返る。

 今季から名古屋グランパスエイトへと新たなフィールドへ飛び出した安選手。

 沢栗さんと鄭さんは口をそろえた。「新潟で日朝の橋を架けて、『ビッグスワン』となって飛び立っていったんですよ」。(金明c記者)

[朝鮮新報 2005.6.9]