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6.15民族統一大祝典に参加して 平壌市民、嵐のような大歓声 「わが人生、最高の瞬間」

夢のような再開

朴容吉女史を中心に記念撮影(右から3番目が筆者

 在日韓国良心囚同友会と友人たちの大きな支援と声援を受けて、私は6月14日から16日の3日間、平壌で開催された「6.15民族統一大祝典」に参加してきた。

 大祝典は一言で言って、大成功だった。平壌を訪問した7泊8日は、私にとって感激と感動の連続で、生涯忘れることのないすばらしい体験となった。同友会の代表として今回の歴史的行事に参加できたことを、何よりも嬉しく名誉に思う。

 14日の雨天の中、千里馬銅像前から金日成競技場までの2キロを行進したときの感動と、沿道の平壌市民たちの祖国統一を連呼するあの姿は、これからもずっと私の脳裏に刻まれるだろう。

 今回、南から参加した代表たちのなかには旧知の方々も多く、彼らとのすばらしい再会も同時に実現することができた。

 私や徐勝さんが平壌に行き、また南の長期囚の元同志、諸先輩たちと平壌で会えるなんて、本当に夢のような出来事だった。ここではとりわけ印象深かったいくつかのことを書いてみたい。

牡丹峰、乙密台!

 6月11日、午後4時50分、私たちが乗った高麗航空機は、平壌の順安空港に着陸した。機内に到着のアナウンスが流れると乗客の中から一斉に拍手が響く。ここは平壌なのだ! 空港建物の前に整列した楽隊のファンファーレが一斉に響き、歓迎の行進曲が演奏される。安京浩北側委員長をはじめ、多数の関係者が出迎えてくださった。

 私と鄭甲寿氏は空港建物の金日成主席の写真と、「平壌」と書かれた看板を背景に写真撮影するために走る。ここは5年前、金大中大統領が飛行機を下りて、金正日国防委員長と熱い握手を交わした歴史的な場所。5年後の今、私たちはその時の感動を再び味わっていた。ここで写真を撮っておかないと平壌に来た意味がない。

 翌日は市内見物へ。案内員がどこを見たいかというので、私はまずは何といっても牡丹峰、乙密台と応えた。ホテルを出発して万寿台の丘を通り、何分もかからず車が止まる。金日成競技場の横の坂道をゆっくり歩いて登るともうそこが「牡丹峰、乙密台!」。

 そこから下方を流れる大同江を見下ろす。大同江は悠久の歴史を秘めて、静かに悠々と流れていた。

来た甲斐があった

 6月14日、午後0時10分、南側の代表団が乗ったバスが空港から到着した。私はこの瞬間を写真に収めようとカメラを構えていた。来た! 待ち構えていた人達から一斉にフラッシュ。私もシャッターを押す。1枚、2枚。3枚…。私のファインダーの中に懐かしい顔が次々と入ってくる。もうだめだ。私はカメラをポケットに突っ込んで、彼らの群れのなかに飛び込んだ。

 「ああ、○○先生!」「おお李哲氏!来ていたのか?」。ひとり一人と握手し、抱き合った。夢のようだった。韓国でもなかなか会えない人たちなのに、平壌で会い、抱き合えるなんて。涙が出そうになった。朴容吉長老。張永達議員。次々と顔が現れる。南民戦の金容玉さん、韓明淑議員、任軒栄先生、趙誠雨氏、李承煥氏…。ウリ党の金希宣議員ではないか。ああ平壌に来て良かった。本当に来た甲斐があったというものだ。

取り払った心の壁

 同日夕方7時から民族統一大行進があるのに、朝から雨が激しく降っている。雨のなかを歩くことを思えば気が滅入ったが、千里馬銅像の前から凱旋門のある金日成競技場まで約2キロを徒歩行進して、競技場で大会の開会式が行われた。

 行進の準備が整うと、最前列のオープンカーを先頭にして北の楽隊、そして南側代表団が進み、その次に海外の私たちが進む。在日は海外の中でも一番前だ。私たちは片手でプラカードを、片手には白地に青色の統一旗を振りながら進んだ。しんがりは北側の代表団だ。

 最前列のオープンカー、そして楽隊が行進を開始すると、遠くの方から「ドゥオー」という地響きのような音が鳴りだした。その音は在日の列までも続き、私たちは祖国統一という大きな連呼と地響きのなかに包まれ、溶け込んだ。平壌市民たちの嵐のような大歓迎は私たちのもやもやを完全に焼きつくし、心の壁を取り払っていた。

 私は沿道を埋め尽くした10万の平壌市民たちに手を振り、晴れて平壌訪問ができた感激の挨拶もした。沿道の建物の窓からも手を振って私たちを熱烈に歓迎している姿が見え、私は胸が詰まった。全身が雨に濡れても一向に気にならなかった。むしろこの沿道の大歓迎の波と一つになっているという感激が私をすっぽりと包んでいた。

 私は雨なのか涙なのか自分でも分からないが、顔中をぐちゃぐちゃにして祖国統一を連呼し、手を振った。いまだかつてこんなに大きな声で喉をからして祖国統一の掛け声を、こんなに誰に憚ることもなく、ありったけの声を張り上げて叫んだことはなかった。私にとってこの場、この瞬間は57歳の今までありえなかった、最高の晴れの瞬間であった。

 18歳から57歳までの39年間。韓国での死刑囚3年6カ月を含む、13年の監獄暮らしと10余年の同友会の活動を通して、そのすべての人生はこの瞬間のための準備だったような気すらした。

 「あぁ、同友会の仲間たちがこの場に一緒にいたらどれほどいいだろうか」私一人がこんな幸せを味わってもいいのか。私は今回参加していない仲間の分まで大きな声で統一を叫んだ。

互いに心開いて

 6月17日夕刻、あれほど願った南から北へ帰られた長期囚の先生方に会うことは、ついに叶わなかった。

 私は失望した。その時、ある総連の方が私にこう声をかけてくれた。

 「李哲先生の気持ちはよく分かります。さぞかし残念なことでしょう。しかし、何か事情があるのです。最初のひとさじでお腹が一杯になることはないでしょう?」私はその言葉に感銘を覚えた。

 「そうだ!最初のひとさじで腹が膨れるわけがない。みな誰でも似たような苦々しさをかみ砕き、消化し、そして昇華させてきたのだ」と。分断から60年、異質の社会同士が一つになるためには時間もかかるし、長い話し合いと理解が必要なのだ。私たちは今あるそのものを尊重し、抱擁していかなければならない。異なる部分を排斥しあうのではなく、ありのままのそのものを、愛情をもって痛みまでも共に抱きあうことが、互いに心を開く第一歩なのだ。そうでない統一は意味がない。私は今回長期囚の先生方に会えなかったことも私の心を律して正し、より謙虚になるいい薬になったと思った。

 私は平壌最後の夜を鄭甲寿氏と二人で、ビールと焼酎で過ごしながら、6.15の大会に参加できたことを心から良かったと思った。私は私のすべての過去に感謝しながら、快い疲れのなかに杯を飲み干した。(在日韓国良心囚同友会代表、李哲)

[朝鮮新報 2005.8.8]