〈夢・挑戦−在日スポーツ人〉 大阪朝高ボクシング部監督 梁学哲さん |
朝鮮高級学校の全国大会参加への門戸が開いたのは今から11年前の1994年。ボクシング強豪校として名を馳せてきた大阪朝鮮高級学校ボクシング部。今でこそインターハイ常連校のイメージが定着したものの、それまでは公式試合に出られず日本の高校には練習試合の相手にもされなかった。数々の苦悩と困難を乗り越え、部を率いてきたのが監督の梁学哲さん(46)だ。
梁さんはボクシング部監督、国語教員である傍ら、在日本朝鮮人ボクシング協会強化委員長、大阪府アマチュアボクシング連盟・高校振興委員長、日本、朝鮮、アジアのアマチュアボクシング連盟の公認審判員などさまざまな肩書きを持つ。もう一つ忘れてはならないのは、朝鮮民主主義人民共和国・功勲体育人(02年10月受賞)であることだ。 日本国内の肩書きのみならず祖国の評価から、その業績の大きさを知ることができる。 朝高の全国大会出場の道が開いた94年からは毎年、選手らを全国の舞台に上げてきた。これまで全国高校選抜大会、インターハイでチャンピオンとなった選手は5人(うち2人は選抜とインターハイで2冠)、準優勝1人、3位入賞者は10人だ。また、アジア大会、オリンピックアジア予選などの国際大会にも卒業生らが5人出場。スポーツ選手の名誉称号である「共和国体育名手」も6人が受賞している。 さまざまな功績が評価され、今では高体連などの要請でボクシングに関する講義も行うまでになった。
「部の指導を始めた当時は今を想像できなかった。大阪朝高に赴任した当時に誓った、『自分の人生をボクシング指導に賭けてみよう』という決心。この気持ちでまっしぐら走ってきた」 梁さんのボクシング人生は、78年の朝大入学と同時にボクシング部に入ったことから始まる。 朝大ボクシング部は76年に関東大学アマチュアボクシング連盟に加盟し、翌年からは関東大学リーグへの道が開かれた。入学時、他のクラブの中で唯一日本の公式戦に出場していたクラブでもあった。 自身は関東大学トーナメントのバンタム級で準優勝、4年時には副主将も務めるほどの実力で4部から3部に昇格させた。 その実績をひっさげて82年に大阪朝高に赴任。しかし当時の学校の現状は「今の朝高からは想像もできない」くらい荒れていて、ボクシング部も例外ではなかった。 赴任当初60キロあった体重が1カ月で8キロも減った。ボクシング部員は30人ほどいたが、毎日練習に出てくる生徒は2、3人。退部する生徒らも後を絶たなかった。日本の高校に練習試合を頼んでも断わられ、苦悩の日々が続いた。 「練習だけじゃ意味がない…」 そんな時、大阪朝高に手を差し伸べてくれたのが当時、奈良県立王寺工業高校ボクシング部監督を務めていた樋山茂さん(52、現在は奈良県立信貴ヶ丘高校教員、全国高体連ボクシング専門委員長)だった。 「全国屈指の監督でしたから本当にすごかった。そこでは見るものすべてが違った。練習方法一つにおいても科学的、理論的でとても憧れた」 生徒らには一つの目標ができた。「王寺工業との練習試合ががわれわれの公式戦だ」と言い聞かせた。 試合範囲が近畿、他県と広がりを見せると「今までの朝高とは違う」「朝高に情熱を持った先生がいる」との評判が高まり、関係者らから認められるようになっていった。そして87年、国体予選をかねる府民大会に出場できるようになった。同部は初参加で3階級に優勝する。 一般の部でメキメキ頭角を表してもやはり高校生。「高校生の大会に出場させてやりたい」と思い、公式戦に出場できないか、片っ端から当たった。全日本選手権府予選や90年に大阪府社会人大会などに出場するが、どれも「高校生」の大会ではなかった。何度も何度も生徒らに言い聞かせた。 「お前たちにはこれしかないんだ」 梁さんが監督になり涙したのは3回。涙の裏には厳しい高校ボクシングの世界を戦いぬいてきた熱いドラマが秘められている。 波紋を呼んだ90年の「高体連問題」。同校バレーボール部の府大会辞退問題(注参照)が発端となり大阪高体連が91年、全国に先駆けて大阪高校総合体育大会の参加を認めたのだ。 初めて、朝高生が日本の高校生らと肩を並べて戦うことができた。歴史的な一歩だった。「平常心で臨もうと思っていたが、堂々と試合をするウリ選手の姿に涙があふれ出た」。 そして、初の公式戦出場から3年目にしてインターハイ、6年目にして全国選抜大会への道が開かれた。 2回目の涙は94年8月1日、インターハイ出場元年(富山県)の時。日本の高校の教師、監督らに「やっとスタートラインに立てたね」と声をかけられ固い握手を求められた。感激の涙が止まらなかった。 そして3回目の涙。01年度インターハイで崔日領選手がミドル級で悲願の優勝を果たした時。8年目にしてようやくたどり着いた道のりだった。「おめでとう」「長かったね」との声に、梁さんの脳裏には万感の思いが去来した。 国境を越えて結ばれた固い友情と信頼が実を結んだのだった。 「インターハイの初優勝はボクシングの枠を超えたさまざまな人たちの協力があったからだった…。判定の壁にぶちあたったりしながらも選手の力を信じてきた。信じて突き進めば必ず勝てると。優勝することによって自分たちの力を名実ともに示せたし、ボクシング界で認められた。画期的なことだった」(金明c記者) 【注】90年5月、大阪朝高女子バレーボール部が府高体連主催の春季大会の参加を一旦は認められ1次予選を勝ちぬきながら、府高体連から突如「参加受付は勘違い」と大会出場を拒まれた。同校はじめ在日同胞、日本のスポーツ関係者らから強い批判、抗議を受けた。この事件を機に、高体連は93年5月の理事会で、朝鮮学校を含む各種、専修学校に対しインターハイへの参加を特例として承認した。 [朝鮮新報 2005.9.15] |