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日弁連勧告書−4− 「治安維持法」人権救済申立事件

 第5 認定した事実と理由

 1 認定した事実

 (1)朝鮮総督府への就職

 申立人は、1924(大正13)年10月17日に朝鮮半島で生まれた。1925(大正14)年、父徐錫斗氏が来日し、京都府綾部市青野の舞鶴鉄道の飯場で働き始めた。1933(昭和8)年2月、申立人は父を訪ねて母親と来日し、綾部市での生活を始めた。尋常高等小学校を卒業し西宮市立西宮商業学校に入学したところ、同校の同級生に、金圭元がいた。同校の三年生のときに、「創氏改名」が行われ、申立人の氏名は「徐元洙」から「達川元一」に変わった。申立人は、同校卒業後、1943(昭和18)年2月、朝鮮総督府に就職し、同府官房文書課で働き始めた。

 (2)朝鮮から金圭元(日本居住)への通信など

 文書課での仕事は、日本政府から送られてきた文書の整理点検であった。

 申立人は、当初、「内鮮一体」「一視同仁」を信じ、希望に胸をふくらませて働いていた。しかし、仕事の時間は長いのに、給料は日本の旧制中学卒業生の7割程度しかなく昇進するのにも3倍の月日がかかること、官庁を初め主要な部門は日本人が独占し、病院、住宅も日本人が優遇されていることなどの実態を知るにつれて、申立人は朝鮮への差別を実感するようになり、民族意識が芽生えてくるようになった。

 西宮市立商業学校で同級生であった金圭元とは、商業学校卒業後も連絡を取り合う仲であった。1943(昭和18)年4月頃、申立人は、金圭元に対して、朝鮮に来て体験した耐えられない差別の状況や、何とかして我々が立ち上がるべきではないかと偽らない心情を記した手紙を送った。日本で同じ思いを抱いていた金圭元から返事があり、それを機会に、月1回ぐらい手紙や本のやりとり(を)するようになった。また、冬休みなど長期の休暇のときに日本へ帰宅したときなどには、金圭元と朝鮮人の現状について話し合った。

 (3)金圭元の逮捕と申立人の日本への帰国

 1944(昭和19)年の夏頃、金圭元逮捕の情報が入り、申立人も朝鮮総督府にいては逮捕されると思い、総督府を辞めて西宮市の親元に戻った。西宮に戻って間もなく、徴兵検査の通知が届き、検査を受けたところ、第一乙種合格であった。しかし、申立人は、徴兵されるのではなく、川崎重工業西宮特殊鋼工場へ徴用され働かされることとなった。

 (4)治安維持法違反での検挙等

 工場で働き始めて数カ月後の1944(昭和19)年8月21日、申立人は治安維持法容疑で検挙された。検挙後は西宮警察署に留置され、そこで警察の取り調べを受けた。警察では金圭元との手紙のやりとりなど、金圭元との交流関係について聴取された。拷問はなかったが、水を一切飲ませて貰えず、また食事が少なく空腹でつらい思いをした。

 同年9月25日、検事局へ送局され検事の取り調べを受けた。

 裁判では国選弁護人がつき、争わなかったため、1945(昭和20)年2月9日、申立人は懲役2年執行猶予3年の言い渡しを受け、その後釈放され自宅に戻った。(つづく)

[朝鮮新報 2005.3.22]