日弁連勧告書−5− 「治安維持法」人権救済申立事件 |
2 事実認定の理由 (1)上記事実認定の根拠となる資料として、@「西宮・甲陽園の地下壕を記録し保存する会」発行の「埋もれた歴史に光をU−西宮と朝鮮人−」、A朝鮮人強制連行真相調査団編「朝鮮人強制連行真相調査の記録−兵庫編−」(1993)に収録されている「皇民化教育と私−川崎重工業西宮工場−」と題する申立人の手記、B「復刻版特高月報(昭和十九年十月分)」(内務省警保局保安課)、C申立人が所持している神戸地方裁判所検事局検事横田静造作成の「刑執行猶予告知書」がある。 (2)「復刻版特高月報(昭和十九年十月分)」(B) ア このうち、「復刻版特高月報(昭和十九年十月分)」(B)には、「三、朝鮮人の治安維持法違反(未組織)事件検挙取調状況」という項目の後に、検事が取調べ中の治安維持法違反事件のうち未組織事件を一覧表にまとめて紹介している(同月報45頁〜46頁)。 イ その中に、兵庫で検挙された事件の記載があるが、そこには、「検挙年月日」、「送局年月日」、「本籍、住所、職業、氏名、年齢」について、次のように記載されている。 「検挙 一九、八、二一 「本籍 慶南金海郡長有面大清里二七三 ウ また、「犯罪事実概要」欄には、つぎのように記載されている。 「西宮商業学校卒業時の就職問題に関して差別的待遇を受けてより民族的悲哀を感じ、昭和18年2月朝鮮総督府に奉職するに及び半島人官吏の差別的処遇条件を目撃体験していよいよ、民族意識を尖鋭化し、ついに同年4月頃より独立運動の進展を決意するにいたり当面して同志の獲得同僚の啓蒙を目標に松山圭之に対して諺文にて『半島同胞の窮状及び差別厭迫の現状を訴え信ずるの出来ぬ社会なり』と通信するほか西宮市に渡来して『朝鮮はついに独立して真の自由と幸福を獲得すべきだが、之が責務はわれわれ半島青年の双肩に懸かっている。したがって、われわれは常に之を念頭に置き大いに頑張る一面半島青年同志の獲得に努力しよう』等の意識啓蒙煽動をなし同志獲得に暗躍しつつありたり。」 エ なお、この資料では、本籍地が「慶南金海郡」、氏名が「轟ウ洙」「達川廣一」とそれぞれ記載されているが、このうち下線部分は単純な誤記であると思われる。正確には、本籍は「慶尚南道金海郡」、氏名は「徐元洙」「達川元一」である。 オ 上記特高月報の記載から、申立人は、1944(昭和19)年8月21日、治安維持法事件容疑で検挙され、同年9月25日検事局に送局されたことを認めることができる。 また、「犯罪事実概要」から、申立人は、@朝鮮人である申立人が、朝鮮における差別の現状を憂える手紙を日本の友人(金圭元)宛て送ったことと、A西宮市で朝鮮独立のために同志を募り啓蒙活動をした言動が、治安維持法違反であるとして検挙されたことを認めることができる。 (3)「刑執行猶豫告知書」(C) ア 申立人の訴追事実を裏付ける起訴状及び判決書は存在しないが、申立人が所持している「刑執行猶豫告知書」(C)には、つぎのように記載されている。 「本籍 朝鮮慶尚南道金海郡長有面大清里二七三番地 右ノ者昭和二十年二月九日神戸地方裁判所ニ於テ治安維持法違反罪ニ因り懲役貳年ニ処セラレタル所刑ノ執行猶豫ノ裁判アリタルニ付左ノ通心得ヘシ 一 刑ノ執行猶豫ノ期間ハ昭和二十年二月十二日ヨリ昭和二十三年二月十日迄ナリ 一 (以下略) 右告知ス イ 同告知書から、申立人は、1945(昭和20)年2月9日、神戸地方裁判所で、治安維持法違反を理由に懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けたことを認めることができる。 (4)講演録及び手記 @(講演録)は、自らの体験を講演したものを反訳したものであり、A(手記)は自らの体験を手記の形で発表したものである。いずれも、来日や逮捕に至る経緯、逮捕後の取調べ情況等について詳細に論じており、その内容には矛盾はなく一致しかつ合理性があり、前述したB及びCの資料の記載内容とも一致していることから信用できるのであり、おおむね申立人の供述の沿った事実を認定することができる。以上から、第5、1記載の事実を認定することができる。 但し、前記特高月報によれば、申立人は、「『朝鮮はついに独立して真の自由と幸福を獲得すべきだが、之が責務はわれわれ半島青年の双肩に懸かっている。したがって、われわれは常に之を念頭に置き大いに頑張る一面半島青年同志の獲得に努力しよう』等の意識啓蒙煽動をなし同志獲得に暗躍しつつありたり。」としているところ、申立人は、そのような同志獲得のための言動なるものをしたことはないとしている。この事実の存否は、現在の資料では確認は困難であるが、特高月報の記載によっても、捜査当局側も、申立人について、特定の政党、組織等との結びつきを認定してはいないことは認められる。(つづく) [朝鮮新報 2005.3.30] |