日弁連勧告書−6− 「治安維持法」人権救済申立事件 |
第6 本委員会の判断 1 本件の問題点 本件では、申立人の言動が治安維持法違反によって処罰されたことが、申立人の表現の自由、思想良心の自由などの人権を侵害したと評価しうるか、が問題となる。 2 治安維持法の内容と改正経緯 (1)治安維持法 (1925年)の内容 ア 治安維持法は1925(大正14)年4月22日、法律第46号として制定され、同年5月12日に施行された。この法律と同じ年の3月7日に普通選挙法が成立していた。治安維持法は、日ソ基本条約締結に伴い日本国内に無政府主義、共産主義が蔓延することを防止することや、大正デモクラシーと呼ばれる社会動向のなかでの労働運動、農民運動などの高揚に直面した政府側が普通選挙法の制定と抱き合わせで提案するなどの硬軟両面の対処等を背景として制定された。 イ 治安維持法は「結社ヲ組織シ又ハ私有財産制度ヲ容認スルコトヲ目的」とする結社等を処罰する法律である。 このような目的として「国体ヲ変革シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者」に対しては10年以下の懲役又は禁錮を(第1条)、その目的を以て目的の実行のための「協議」(第2条)、「煽動」(第3条)を行った者に対しては7年以下の懲役又は禁錮の刑が科せられる。また、その目的をもって「騒擾、暴行其ノ他生命、身体又ハ財産ニ害を加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者」に対して10年以下の(第4条)、第1条から第4条の罪を犯させることを目的として金品等の利益供与、約束があった場合は提供側受け入れ側双方に5年以下の懲役又は禁錮の刑が科せられる(第5条)。 ウ 当時「国体」の意味については、「国体ハ何人カ主権者ナルカノ問題ナリ、本法ニ国体ト謂フ八万世一系ノ天皇ノ統治セラルル我カ君主国体ナリ」と説明されていた。 同法は、無政府主義、共産主義という特定の思想を目的とする結社等を処罰するものと理解されていた。しかし、「国体」概念の曖昧さもあって、その後は国際主義、民主主義、あるいは特定の宗教をも「国体ノ変革」を目的とするものとして同法の適用が拡大されてくる。 エ 朝鮮に対しては、「治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件」という勅令により、治安維持法と同日に施行された。 治安維持法が審議されている1925(大正14)年3月17日の貴族院の委員会審議で、小川法相(当時)は、民族独立の運動が「国体」変革に該当することを明言している(萩野・『治安維持法関係資料集』第4巻560頁)。高等法院検事長から覆審法院・地方法院の各検事局に宛てた通牒「治安維持法適用ニ関スル件」(1935年6月13日付)では、朝鮮民族独立運動に対する積極的な適用が求められていた(萩野・前頁書572頁)。 (2)緊急勅令による改正治安維持法(1928年)の内容 ア 治安維持法は1928年(昭和3)年6月29日に緊急勅令129号によって改正された。この改正治安維持法は、植民地である朝鮮、台湾、樺太、租借地である関東州、委任統治領である南洋群島、領事裁判権を有する中国における「日本国民」に対しても、そのまま適用された。「一旦勅令を以て右の地域に治安維持法を施行し又は之に依ることが定まった以上は、爾後に於ける其改正は当然に該地域にも及ぶものである」という解釈にもとづく(萩野・前掲書590頁)。 イ 改正内容の第1は、改正治安維持法第1条第1項で「国体ヲ変革スルコトヲ目的」とする結社を、第2項で「私有財産ヲ否認スルコトヲ目的」とする結社を区別して、前者を重罰化したことである。 ウ 改正内容の第2は、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」(目的遂行罪)との規定が加わったことである(「私有財産制度ヲ否認」する目的のための結社の目的遂行行為の規定も設けられ、10年以下の懲役又は禁錮と定められた)。 この目的遂行罪は目的罪ではないとされたことで、治安維持法はその性格を大きく変えることになる。 旧治安維持法(1925年)制定時、政府は、同法には危険性がないことの説明として、「目的罪トナシタルコト」を特色として指摘し、それを「犯罪ノ成立ヲ能フ限リ厳格、慎重ナラシメムトスル立法上ノ用意ニ出タルモノナリ」と説明していた(萩野・前掲書558頁)。ところが、目的遂行罪の設置により、目的による歯止めが失われることになり、その処罰範囲が完全に拡大することになる。 (3)「改正」治安維持法(1941年)の内容 ア 1934(昭和9)年と35(昭和10)年の二度にわたり、治安維持法「改正」が試みられるが、いずれも廃案となった。しかし、1936(昭和11)年12月12日に勅令第16号「朝鮮思想犯保護観察令」が公布され、12月21日施行された。 同法のめざす「思想ノ指導」とは、「日本的思想行動の参加と明徴」=「国体」観念の明徴であり、「日本人としての正直に復帰せしめ、または正道を確保せしむこと」(司法省・前掲書)であった。朝鮮においては、「皇民化」政策の一環であった。同法は、治安維持法と一体となって、積極的な「思想ノ指導」により、個人の思想に踏み込み、思想を変えることを目的としていた法律であった。 イ 日中戦争が拡大し、太平洋戦争が拡大される直前の1941年(昭和16)年3月10日に法律第54号として治安維持法の改正がなされ、同年5月15日に施行された。 この改正の要点の第1は、刑の重刑化にある。有期懲役刑の下限が全般的に引き上げられ、禁錮刑はなくなった。 改正の要点の第2は、「国体ノ変革」結社を支援する結社に対して、処罰規定が導入された(第2条)。また「国体の変革」の「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)や、「結社」といえない「集団」、さらには「結社」にも「集団」にも関係のない個人が「国体変革」の「目的タル事項」を宣伝したり、「目的遂行ノ為ニスル行為」を禁止する規定が創設された(第3条乃至第5条)。これにより、治安維持法は単なる「結社」取締法ではなくなったのである。 改正の要点の第3は、7条以下において「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トスル」結社、集団の組織、役職就任・指導、加入、目的遂行等が処罰の対象となったことである。 「国体ノ変革」という要件において、「国体」が法的に限定のない概念であるが、「変革」という言葉もそれが包摂するところも広くまた限定しにくいものがあった。この改正によってそれに「否定」が加わることにより、さらにその適用範囲が広がることとなった。「国体ノ変革」と「国体ノ否定」との違いについて、当局は、「国体ノ否定」とは「国体」観念を単に承認しないという観念的、消極的な精神活動であること、「国体ノ否定」は「国体ノ変革」思想の前提であり、かつ、後者を包摂する広い概念であると説明していた。「変革」という概念には行為的要素があるからまだしも、「否定」となると専ら心理的なものとなり、さらにそれも法律の執行者の主観的判断によって適用されることになるのである。 以前から運用において、宗教団体への弾圧を含め、その精神的活動そのものを処罰してきたが、「改正」治安維持法により「国体の否定」思想に焦点を合わせることにより、まったく観念にとどまる精神的活動そのものにたいして処罰されることが明文化されたことに、大きな特徴がある。 改正の要点の第4は、治安維持法違反事件について特別な刑事手続きが導入させられたことである。被疑者に対する身体の拘束、取調べ、証拠の収集等の手続について一般的制限はゆるめられ、官憲側にとって同法による取締りはより容易となった。またその裁判も特別の手続によっておこなわれることとなり、治安維持法事件の弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」ということになった。 改正の要点の第5は、この改正で治安維持法違反による受刑者は刑期が終わった後においても、再び罪をおかすおそれがあるということで引き続きその身体を拘束されるという予防拘禁制度が導入されたことである。なお、朝鮮への予防拘禁制度は、「改正」治安維持法(1941年)より約1カ月ほど早い2月12日、政令第8号により「朝鮮思想犯予防拘禁令」が公布され、3月10日に施行された(なお、「改正」治安維持法の施行により、5月14日に廃止された)。 ウ 以上の内容を持った「改正」治安維持法は、従来の治安維持法の「改正」にとどまらず新たな治安維持法の制定とも呼ぶべき画期性があったと評価されている(萩野・前掲書709頁)。 これにより、無政府主義、共産主義のみならず、自由主義、民主主義、さらには宗教団体の教義も含めて、「国体ノ否認」と看做される思想はすべて処罰の対象となるための思想取締法が確立されたのである。(つづく) [朝鮮新報 2005.4.6] |