日弁連勧告書−7− 「治安維持法」人権救済申立事件 |
3 申立人の人権−「思想良心の自由」「表現の自由」 (1)本件で、処罰の対象となった申立人の行為は、国側の資料である特攻月報によれば、第1に、朝鮮総督府勤務中に、「半島人官吏の差別的処遇条件を目撃し、」金圭元に対して、「半島同胞の窮状及び差別厭迫の現状を訴え信ずるの出来ぬ社会なり」と通信したこと、第2に、西宮市において、「『朝鮮はついに独立して真の自由と幸福を獲得すべきだが、これが責務はわれわれ半島青年の双肩に懸かっている。したがって、われわれは常に之を念頭に置き大いに頑張る一面半島青年同志の獲得に努力しよう』等の意識啓蒙煽動をなし同志獲得に暗躍しつつあ」ったことである。 但し、第2の点については、申立人は、上記のような朝鮮独立の同志獲得のための言動を行ったことは否定している。 仮に、特攻月報の指摘する第2の行為が存在したとしても、申立人の、第1、第2の言動は、何れも、現行憲法においては、思想、良心の自由(19条)、表現の自由(21条)として、個人の尊厳に直結するものとして保障されている。 (2)しかし、大日本帝国憲法には、「思想・良心の自由」の保障を定めた規定は存在していなかった。また、「表現の自由」に関しても、「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」(第29条)と定められているとおり、「法律ノ範囲内」でしか保障されていなかった。 そこで、本件における人権侵害性を判断するためには、まず、上記通信や言動が当時においても人権として保護されるべきなのかを明らかにする必要がある。以下その点について検討する。 ア 人権の固有性(自然権としての性格) (a)そもそも、人権とは「人がただ人間であるということのみに基づいて当然に持っている権利」「人間が生まれながらに持っている権利、すなわち、生来の権利」「奪うことのできない権利または他人に譲り渡すことのできない権利」であり(宮沢俊義「憲法U」77頁)、固有性(人間であることにより当然に有すること)、不可侵性(不当に侵害ないし制約されないこと)、普遍性(人種や性などの区別に関係なくすべての人間が当然に有すること)という特徴を有する(芦部信喜「憲法学U」55頁)。 (b)日本国憲法11条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」と規定し、同97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつ(原文ママ)て、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と定められている。 これらの規定は、「大日本帝国憲法下における『天賦人権』論の排斥および治安維持法のもとで顕著となった国家による人権侵害(とりわけ身体の自由や思想、信条の自由の侵害)に対する反省」(辻村みよ子「憲法(第2版)」132頁)のうえにたって、人権が固有性、不可侵性、普遍性を有していることを明示的に確認したものである。 イ 「思想良心の自由」「表現の自由」の固有性(自然権としての性格) (a)とりわけ、「思想・良心の自由」は、「精神活動の中でも最も基本的な内心の自由であり、個人の人間としての尊厳に由来する」(辻村みよ子・前掲書216頁)極めて重要な権利である。 欧米の憲法では、信仰の自由や表現の自由と結びつけて思想の自由を保障するのが通例である。しかし、「日本では旧憲法下の治安維持法等によって特定の思想が弾圧されたこともあり、日本国憲法は、精神的自由に関する諸規定の冒頭に19条をおいて、その総則的な規定として、明示的に思想・良心の自由を保障することになった」(辻村みよ子・前掲書216頁)。憲法19条は、戦前の治安維持法等による思想弾圧に対する深い反省から、「思想良心の自由」を実態法上も明記することにより、同権利が生来的な権利(自然権)であることを明示的に確認したのである。 (b)また、「表現の自由」は、18世紀に近代憲法原理として確立されて以来、世界各国でその個人の自然権としての性格が確認されてきた。 たとえば、ヴァージニア権利宣言12条では「言論・出版の自由は自由の有力なる防塞の一つであって、これを制限するものは専制的政府といわなければならない。」と定め、合衆国憲法では、1791年の第1修正で、連邦議会が言論・出版を制限し、集会等を侵害する法律を制定してはならないことを定めた。また、1789年のフランス人権宣言10条は、「思想および意見の自由な伝達は人の最も貴重な権利の一つである。」と定めている。 日本国憲法21条の「表現の自由」の規定も、18世紀以来の近代憲法原理の系譜に位置するのであり、個人の自然権であることを確認したものである。 ウ 小括 以上のとおり、日本国憲法の「思想良心の自由」「表現の自由」は、同権利が自然権であることを明示的に確認したものであることからすれば、戦前においても、表現の自由、思想良心の自由が保護されるべきことは明らかである。大日本帝国憲法下で「表現の自由」が「法律ノ範囲内」で保障されていたにとどまるのは、外見的立憲主義の下で、同権利が自然権としての性質をもつことに対する認識が不十分であったことによるのであり、大日本帝国憲法の規定をもって申立人の上記権利の人権性が否定されるわけではない。 4 本件申立人を治安維持法違反で処罰することの人権侵害性 そこで、思想良心の自由及び表現の自由として保障されるべき申立人の言動を、治安維持法に基づいて処罰し、これら思想良心の自由、表現の自由を制約することが許されるか否かについて検討する。 申立人は、友人に対して、朝鮮人への差別の実情を伝える書簡を送り、友人との間で朝鮮人への差別や朝鮮人の現状を憂う話をし、また、朝鮮独立の同志を募る活動をしたと認定されたものである。 しかし、特攻月報にも記載された事実を前提としても、申立人は朝鮮における日本の統治が朝鮮人に対して差別的なものであることを友人に伝え、また、朝鮮独立のために同志を募ることを友人に訴えたというに過ぎない。これらの言動が、何らかの身体、財産などに対する具体的危険を発生させるような発言や呼びかけではないことは、文言上明らかである。あるいは、いずれかの人の名誉を毀損したりしているものでもない。 他方、申立人のこれらの言動についても、治安維持法は、「国体の変革」に結びつくものとして、処罰の対象とした。ここで言う「国体の変革」や「国体の否定」における「変革」や「否定」という概念は、前述のとおり単なる言論や、更にはその者の内心の思想まで包摂する広範かつあいまいな概念であり、本件申立人の言動について処罰する正当な目的や理由はおよそ見出しえない。治安維持法の、その言動そのもののもつ具体的な危険性と関わりなく、その者の心裡に立ち入ってその思想、信条を抑圧するという性格が本件においても端的に示されたものというべきである。よって、申立人の思想良心の自由、表現の自由を制約すること、しかも処罰という最も峻厳な方法で制約することが許されないことは明らかである。 以上に鑑みれば、本件申立人の言動を根拠に、申立人の身体を拘束し、処罰したことは、申立人の思想良心の自由、表現の自由を著しく侵害したものである。(つづく) [朝鮮新報 2005.4.13] |