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日本の戦争犯罪 自ら検証を−ジャーナリスト・成田俊一

日本軍による性暴力(被害を告発したフィリピン女性レメディアさんの絵より)

 日本軍の虐殺行為について、そしてその事実について、個人としての体験を記述しよう。中学2年生の時、父親の小さな書斎をまるで探検でもするように、そこに積まれた書籍や書類を片っ端から見たことがある。棚の下に数冊の古いアルバムがあった。そのなかの2冊のアルバムは、父が職業軍人として赴任した、満州での記録を映していた。この2冊のアルバムとの出会いこそが、その後の私の人生に、決定的な影響を与え、さらに限定して言えば、そのなかの十数枚の写真こそが、戦争と国家を考える始まりとなった。ジャーナリストを職業としたのも、それらの写真を見てしまったことと無縁ではなかった。

 父親は、関東軍で特務機関に所属していた。アルバムの日付は、昭和初期から15年ごろまでだった。軍刀をさした制服姿の父、零下30度の酷寒の地で、ぶ厚い防寒服で立つ父、騎乗姿の父、奉天出張の時の駅での父など、そのアルバムには、若き日の父親がいた。セピア色した十数枚の写真は、4ページほどに収録されていた。

 十数枚の写真は、すべて生首だった。軍刀で落とされた人間の首を、柵に横一列に並べたもの、3つの首を地べたに置き、銃剣を立てたものなど、どれも目を覆いたくなるような悲惨な光景があった。顔はほとんどが目を閉じてはいたが、口元から血が一筋二筋流れていた。人間の首を、まるで陳列するかのようにさまざまなアングルで映されていた写真の数々。なかでも、20以上はあったと思うが、首という首を、大きな木の枝という枝にそれぞれ差し込んでいた写真を見た時、中学生の私は、それまで感じたこともない恐怖に後ずさりし、息が苦しくなりアルバムをとたんに閉じた。

 「この写真はなんなのか」。中学生の私には、それが日本軍が中国を侵略し、朝鮮を植民地化した時代の、日本の蛮行を示す動かしがたい記録写真であることなど知る由もなかった。

3.1独立運動を徹底的に軍事弾圧する日本官憲

 この写真を巡って中学生の私は、何度となく父親と論争にもならない論争をしたことがある。父親の説明を今でも記憶している。「こいつらはゲリラだった。平民の服装はしてるけど民兵なんだ。油断するとこっちが殺られてしまう」と、いつも同じ説明ではあったが、私が「首切ったのか」としつこく聞き質したりすると「うるさい」と、一蹴されたものだった。

 父親が自分の軍刀で、中国人の抗日ゲリラか馬賊か民兵か民間人か区別はつかないが、明らかに捕虜として捕らえたであろう人間を、惨殺したことだけは確かなことだろう。もちろん、父親だけがこうした虐殺行為に加担していたわけではない。多分にその地で日本の軍人の多くは、中国の人間の首を刎ねていたのだろう。

 父親は、私がアルバムを見てから以降、満州でのことを折に触れ語るようになった。

 日本軍の蛮行は、まちがいなく行われていたこと、南京の虐殺も認めていた。中野学校のこと、731部隊の「まるた」のことなど多岐にわたった。

 戦前、日本軍国主義は、中国だけではなく、朝鮮一帯でも狂気の沙汰ともいえる殺戮を繰り返していたのである。これらの写真は、前述のとおり、その後の私のジャーナリストとしての活動の精神的原点ともなった。

 戦後60年も過ぎているというのに、いまだ日本の教科書を巡って、中国、韓国、朝鮮など、アジア各国から記述問題が指摘され指弾されている。日本の歴史教科書が、アジア各地を侵略し植民地化したばかりでなく、当地の文化を踏みにじり、異常なまでの虐殺のかぎりをしたという事実を隠し削除しているからである。虐殺行為に免罪などあるわけがない。

 いま日本に求められているのは、単なる謝罪補償なのではないのである。国家犯罪と断罪された東京裁判の追認でもない。父親が犯した虐殺行為は、一人の軍人の蛮行などではなく、この時代の日本軍の集団的行為であり、その加害史実は、今日もなお明白にされてはいない。「新しい教科書をつくる会」などが虐殺を否定しているようでは、とうてい中国、韓国、朝鮮など、アジア各国との戦後処理は終わらないと知るべきである。日本は、戦前の罪を自ら検証し、公表しなければならない。

[朝鮮新報 2005.6.22]