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「乙巳5条約」強制から100年 -上- 実質的に日本の植民地に

 今年は朝鮮が日本帝国主義によって保護国化される「」を強制された100年目にあたる。

 「乙巳5条約」は「顔のない条約」ともいわれる。条約には締結の目的をしめす表題があるのだが、この「条約」は性急に朝鮮王朝政府につきつけられたため、「顔」となるべき正式の表題がついていなかった。そのため朝鮮側では「乙巳5条約」と呼ばれ、日本側では「第2次日韓協約」あるいは「韓国保護条約」などと呼称されている。

 この異常な「顔のない条約」が朝鮮王朝政府におしつけられたのは1905年 (乙巳年)11月17日である。朝鮮が実質的に日本の植民地に転落するのは、1910年の「日韓併合条約」を待つまでもなくこの時からである。

 朝鮮民族は長い受難の歴史を歩んできた。そしていまなお国土の分断に苦しみ、在日朝鮮人は差別と迫害を受けているが、そのそもそもの根源、出発点は「乙巳5条約」から始まる。

 40年にわたる日本の植民地支配の傷跡は深く、いまだ消え去っていない。だから私たちは今、この屈辱の日を重要な歴史の節目として受け止め、その意味をあらためて考えるのである。

軍事的強圧で統治

 「乙巳5条約」はどのような経過を経て現れたのだろうか。

 日本は1904年2月8日、宣戦布告なしに仁川と旅順のロシア艦隊を奇襲攻撃し、露日戦争に火をつけた。

 朝鮮王朝政府は戦火をさけるため同年1月4日、各国に局外中立を宣言し日本政府にも正式に通告した。しかし日本はこれを全面的に無視し朝鮮に無断で大軍を侵入させた。戦争は朝鮮の地からはじまり、拡大したのである。

 朝鮮を軍事制圧下においた日本がまっさきに要求したのは、朝鮮領土にたいする軍事的使用権であった。

 日本は1904年2月23日の「韓日議定書」で「軍事上必要とする地点をいつでも収用できる」権利を手にいれ、ついで「韓日協定書」によって朝鮮王朝政府の財政、外交権をにぎった。そして1905年9月に露日講和条約が調印されるや、日本は一挙に朝鮮の植民地化を進めた。

 露日講和条約の直後に「乙巳5条約」を強要した日本は朝鮮王朝政府の外交権を完全に奪い、統監府をおいて朝鮮を保護国化した。

 外交権を喪失すれば国際法的には主権をもつ国家間の外交対象とはなりえず、自主国家としての資格がなくなる。「乙巳5条約」は朝鮮王朝−「大韓帝国」を国際的に抹殺した条約であった。

 日本政府は、朝鮮王朝政府が同意しようがしまいが一方的に閣議決定を強行する一方、李完用ら親日分子をあやつって国王高宗が「保護条約」に賛成するよう圧迫を加えた。

 さらに日本は使いなれた宋秉o(野田平治郎)、李容九らが黒龍会の内田良平と結託して親日団体「一進会」をつくり、朝鮮人が保護国化を望んでいるかのように人びとをあざむく世論工作をさせた。

 「乙巳5条約」は、日本の外務省が朝鮮の外交を監督、指導し、朝鮮王朝政府は日本政府の仲介なしには、外国とのいかなる条約も結ぶことはできず、日本政府は1人の統監をソウルに置くことなどを内容としたものである。

 統監府の初代統監には伊藤博文がついた。統監は朝鮮駐屯軍にたいする軍事統帥権をもっていた。当時、日本の憲法では統帥権をもつものは現役の軍人に限られていた。文官である伊藤が軍事統帥権をもったのはきわめて異例のことであり、いかに日本が軍事的強圧で朝鮮統治に臨んでいたかを示している。

死をもって抗議を

 日本の政治家や歴史家の中には、「乙巳5条約」が、正式の外交交渉を通じて合意をみたかのように言う人がいる。しかし日本が「乙巳5条約」を強要する過程をまともに検証するならば、これらの主張がいかに甚だしい奇弁であるかは明らかである。

 「乙巳5条約」強制の具体的な経過についての朝鮮、日本側の記録によれば、伊藤は「韓国皇室慰問」の名目でソウルに赴いている。しかし、彼が実際に行ったことは「慰問」ではなく、高宗が「乙巳5条約」を受け入れるよう強要することであった。

 抵抗する高宗にたいし、伊藤は「日本案を承認するも、拒否するも自由であるが、拒否するならば韓国の地位は、さらに困難におちいることを覚悟しなければならない」と3時間半にわたって脅迫した(「伊藤大使謁見始末」日本外交文書 第38巻第1冊)。

 さらには一介の外交官にすぎない駐韓公使林権助までが、他国の大臣を公使館に集めて強圧をくわえた(林「わが70年を語る」)。

 公使館での会議が不調に終わると、林は憲兵の監視のもとに強制的に大臣たちを宮中に連行して会議を続行させたが、ここでも会議が難航するや、伊藤自ら長谷川軍司令官とともに多数の軍隊をひきつれて夜中に宮中の大臣会議にのりこんだ。

 日本の軍隊や巡査が続々侵入して王宮をとりまき、暗闇の中に銃剣の林がきらめくこの夜の恐ろしい有様は、言葉では形容できない(恐喝気勢 難以形言)と「大韓季年史」は伝えている。

 この宮中大臣会議で、伊藤が朝鮮王朝政府の大臣たちを恐喝するすざましい状況を一部始終見ていた随員の西四辻公尭は「韓末外交秘話」で、つぎのように述べている。
 「ドドドット」馬車を宮中にのりいれた伊藤は「ヅカヅカト会議場ニ入リ」、各大臣に「条約」にたいする賛否の態度を明らかにせよと迫った。伊藤は鉛筆と手帳を握り大臣一人ひとりの名前の上に賛成には〇、反対には×をつけ始めた。か

 参政大臣(首相)韓圭ソルが反対を表明するや、伊藤は「アマリダダヲゴネタラ殺ッテシマエ」とどなり、憲兵に命じて別室に連行させた。会議の場は恐怖につつまれた。伊藤は殺気だった雰囲気のなかで強引に多数決で「保護条約」を承認させたのである。

 亡国的「乙巳5条約」が強制されたことが伝えられるや「皇城新聞」は「是日也放声大哭」と悲憤し、金益廣、柳恫犖、申毀石らは全国各地で反日義兵闘争にたちあがった。

 日本帝国主義の「乙巳5条約」強要に、志をもった人びとは死をもって抗議した。侍従武官長の閔泳煥、特進官・趙秉世、法務府主事宋秉鑚、前賛政・洪万植、李相尚、駐英大使・李漢応などの官人、軍人は自決して悲運の国に殉じた。

 しかし内部大臣・李址鎔、外部大臣・朴斉純、軍部大臣・李根沢、農商部大臣・権重顕、学部大臣・李完用は日本帝国主義に屈服して「条約」を承認し、民族の歴史に売国「乙巳5賊」の醜名をさらした。(白宗元、朝鮮民主主義人民共和国歴史学博士)

[朝鮮新報 2005.11.11]