〈人物で見る日本の朝鮮観〉 布施辰治 |
布施辰治(1880〜1953)は弁護士である。日本流に言えば明治、大正、昭和の三代にわたって、終始一貫、「民衆の味方」「弱く貧しき無産者の友」とする立場に徹した人物であるが、併せて、あの植民地統治下、全くの無権利状態の朝鮮人民に、それこそ献身的に、あらゆる法的手段に訴えて救済活動を行ってきた稀有の存在である。何故、布施辰治は私心なく、言わば朝鮮人の心になりきって朝鮮人問題に取り組むことができたのか。 その布施の朝鮮観と実践行動の一端をみることにしたい。布施辰治は、今の宮城県石巻市の中農の次男坊に生れた。父は、同時期、辰治に漢学塾に通わせ、漢籍をたたきこませる。父栄治郎は家業にははげまなかったが、大変な読書家で、幼い辰治に義民伝やフランス革命、暴政、圧制と闘う人々の話をして聞かせたという。 生来の「正直っ子」にして強い義憤心の持主だった辰治はこれを神妙に聞いていた。布施は1899(明治32)年、19歳で上京し、明治法律学校(現明大)に入り、1902年に卒業し、司法官試補として宇都宮地裁に赴任する。検事代理である。しかし、約1年位で辞職する。ある母子心中未遂事件で母親を殺人未遂犯とする判決書を書かされて、法の非情と矛盾を感じ、辞任した。そして弁護士を開業する。布施の思想形成過程をみるに、@に生来の正義感、Aに父の義民伝などの影響、Bに漢学の影響、たとえば、大学の「格物致知」の読み方も王陽明の「知を致すは物をただすにあり」という、心をただす説をとり、墨子の「兼愛」(自他の差別なく平等に人を愛す)を自己の思想としている。Cに社会主義思想の体得という点に集約されるようだ。 さて、布施の朝鮮観である。彼は少年時、漢学塾に通っていた頃、日清戦争から帰った村民に「オレは朝鮮軍を追撃した。普通の百姓が集まっただけのものだった」と聞いて朝鮮人に同情を感じた(「ある弁護士の生涯」)という。また、併合後の大正初期、「朝鮮の独立運動に敬意を表す」という一文を書いて検事局に呼ばれたというが、これは原文もなく、時期も明らかでない。しかし、これらの挿話のなかに早くも朝鮮に対する関心と同情がみてとれる。 布施辰治の朝鮮観を示す一文がある。1923(大正12)年4月号の「赤旗」(雑誌)の「無産階級から見た朝鮮解放問題」というアンケート回答である。「日韓の併合は、ドンナに表面の美名を飾って居ても、裏面の実際は、資本主義的帝国主義の侵略であったと思う。故に日本の資本主義―各世界の資本主義が未だ倒れないで、愈々断末魔の暴威を振ふ今日、資本主義的帝国主義で侵略せられた朝鮮民衆の愈々搾取せられ、益々圧迫せらるるのは当然の帰結でせう。……、特に朝鮮民衆の搾取と圧迫に目立つのは、舞台が舞台である事とあまりに美名の下に併合した併合が、其の実のあまりに非道い鮮やかな対照の残虐を暴露してゐるからだと考へます(後略)」そして、「私は此の意味に於て、朝鮮民衆の解放運動に特段の注意と努力とを献じる要ありと信じます」と結んだ。布施辰治の生涯は、朝鮮民衆にとり、まさにこの決意を実現するための困難をきわめた実践の連続であったと言える。彼はこの後、4回にわたり朝鮮本土に渡っている。義烈団事件、宮三面事件、朝鮮共産党事件等でそのすべては朝鮮独立を闘って捕えられた独立闘士や、大地主や東拓のために土地を奪われた小作人たちの苦境を救うためのものであった。 在日朝鮮人にとって忘れることのできないことは、関東大震災時に虐殺された朝鮮人の問題での、激しい抗議活動、そして虐殺事件の真相調査活動、併せて犠牲者追悼会で「殺されたものの霊を弔ふの前に、先づ殺したものを憎まねばならぬ、呪はねばならぬ。そして其の責任を問ふべきものである。」と官憲と日本人を糾弾する追悼演説、等々の寝食を忘れての布施の奮闘ぶりであろう。 さらに日本官憲は、大震時、朝鮮人が暴行、または不逞、不敬行為を行った例証として、朴烈・金子文子による大逆事件なるものを捏造するが、布施はこの両人を弁護し、この事件のデッチあげなるを証明しようとするも、大審院の判決は「死刑」であった。この10日後、「死刑」は「無期懲役」に減刑されたが、文子は獄中で自殺する。 布施は文子の骨を引き取り、朝鮮の朴烈家の墓地に埋葬する。朝鮮人の心と一体化した文子の心情に、布施は己れの心をダブらせたものであろうか。 布施は多くの無産運動とも関係深く、自由法曹団を結成して、法的救援の幅を拡げたり、官憲の横暴を容赦なく批判したので、戦前、二度にわたり弁護士資格を奪われたり、また何度か投獄もされた。 日本敗戦は復活した布施弁護士に大活躍の場を与えることになる。日本人関係の事件としては、三鷹事件や松川事件などの弁護人にもなるが、朝鮮人聯盟に関係するものとして、神戸朝鮮人学校事件、国旗事件、深川事件、朝聯・民青解散事件、東京朝高事件、台東会館事件などの弾圧事件の弁護を引受けて在日朝鮮人の権利よう護に尽力するのである。 かつて私は少なからぬ先輩たちに布施辰治の話を聞いたが、一致した評価は、「布施弁護士ほど朝鮮人が頼りにした人物はいなかった」であった。なぜか今、義の人布施辰治を憶う心、しきりである。(琴秉洞、朝・日関係史研究者) [朝鮮新報 2005.1.12] |