〈生涯現役〉 数百人の活動家を自宅に泊めて−金淑さん |
「トンクルトンネ」
人生の半分は、各地から訪れる活動家達の宿舎として自宅を提供し、寝食の世話をし続けてきた。華道小原流家元一級の金淑さんの手は白くしなやかで、半世紀の苦労の痕跡はみじんも見ることができない。 1934年京都に生まれた。慶尚南道出身の父は友禅染めの工場で働いた。その後、職を求め山口県下関市に移り馬車引きの仕事に就いた。市営の火葬場や汚物処理場、刑務所が隣接し日本人が敬遠する劣悪な環境の集落は「トンクルトンネ」(糞窟村)と呼ばれた。 解放当時、われ先に帰国する同胞と同じく長女の金さんを始め、8人兄弟の一家も帰国の準備をしたが難破したり、諸般の事情が重なって、帰国できなかった。 市立中学校に通いながら、朝鮮人聯盟が開設した夜学で母国語を学んだ。夜学の英語授業のおかげで、昼間の中学校の成績がダントツだった。日本学校では民族べっ視の中、萎縮せざるをえなかったが、夜学では同胞の友人と同胞の先生に民族の歴史と言葉を教わり、水をえた魚のごとく溌剌と学ぶことができた。 一方、南北の分断によって「下関事件」(注)が引き起こされた。このとき警察は515人を動員し、不当にも組織の幹部を始め同胞を「騒擾罪」容疑で逮捕した。父は無実の罪で逮捕された同胞を一日も早く釈放しようと、トンネの同胞とともに日夜、資金調達に奔走した。 1951年に結婚。古鉄屋を営む舅も、父と同じく同胞の救援のためにすべてを尽くしていた。祖国の社会主義建設と、同胞を守るために全生活を懸ける事を厭わなかった。 混沌とした時期を経て55年、 総連組織が結成され、さらに祖国と組織への熱い思いがふくらんだ。金さんは女性同盟の活動に参加し、自宅は舅と夫と金さんを訪ねてくる総連の活動家と女性らでまるで「活動家のアジトのように活気に満ち溢れ」、みなが祖国に思いをはせ、熱く語り合い、恋愛もした。 部屋数に余裕のあった自宅は、まもなく 総連中央から(山口組織集中幇助事業)で下関を訪れる活動家の宿舎として提供することとなった。 夏休みは朝鮮大学の実習生が訪れ、自宅はまさに民宿そのものだった。3人の従業員と家族を含め彼らの三度の食事、洗濯など一切を引き受けた。その間、家業も古鉄屋の傍ら市内では誰も手がけてなかった空ビンの回収を始めた。 雪の降る夜の裏庭で、凍えた身重の体で空ビンの仕分け作業は身にしみた。 空ビン回収業は自動車の許可をえなければならず、夫について奔走した。それがきっかっけで運送業開業の権利も得ることができ、運送会社を起こし、ようやく経済的な基盤も整って現在に至る。 生け花の講師 27歳の頃、女性同盟下関支部元町分会の分会長を任され、生活はますますあわただしくなった。常に自宅に寝泊まりしている何人かの活動家の食費を工面するための生活の知恵で、たのもしの協力を分会に呼びかけ、以後長年、同胞の家を一軒一軒集金に回った。後ろを振り向くまもなく働きづめの毎日。 「この社会で日本の人と共に暮らしながら、日本の良き文化にも触れたい」。ずっとあこがれていた事があった。厳格な姑に遠慮しながらも、ひそかに生け花教室に通い始めた。多忙な生活の中でのささやかなオアシスだった。 5人の子どもを成人させ、外出のゆとりもでき、祖国訪問や中央大会などに参加すると必ず声をかけられる。「またぜひオモニの家に泊まりたい。ご飯が食べたい」などと以前、世話をした活動家らからの感謝の言葉だ。 今まで、自宅に泊まった人は数えたこともないけれど数百人にも及ぶ。心の支えはひたすら「金日成主席についてゆけば良いという一心だった。祖国と民族のために一人ひとりができることを何かしなくては、私のできることは活動家の世話」と思い、負担など感じたことはなかった。 父の信念と嫁いだ家庭環境のおかげもあったが「みな、組織のおかげ」と思う。帰国を果たせなかったアボジには、海を越えて祖国が望める場所に墓を作った。 十数年来、女性同盟支部生け花教室の講師を務める。毎回、楽しみにしてくれる受講生がいる。体調が悪くても教室に金さんが現れるとみな笑顔の花が咲く。 「異国にいても組織があるから、同胞の生活が成りたっている。裕福になったとしても、その事を忘れずに」発展させてほしい。(金静媛) 注=「下関事件」「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の樹立宣言にあたり、(1948年12月3日)占領軍命令に反して北鮮国旗を下関市大坪の朝鮮人学校に掲揚」(「山口県警察史」)南の単独選挙の一方で、同胞らは創建を祝賀し国旗を掲揚した。その後、南北の情勢が同胞達にも大きな波紋を呼び起こし、南の一部極右勢力によって1949年8月20日、「朝聯」と「民団」の間で衝突事件が引き起こされた。 [朝鮮新報 2005.1.17] |