top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮史を駆け抜けた女性たちG〉 紅桃

 小説のモデルになり、朝鮮王朝当時広くその名を知られた女性は多くない。まして、王族や大貴族でもなく、大罪を犯したわけでもない一般的な庶民の女性が、その名を留めることなど不可能な話であろう。

 16世紀から17世紀にかけて実在した紅桃という女性は、柳夢寅(1599〜1623)の「於于野談」によって紹介され、その後、1621年に趙緯韓(1558〜1649)によって「崔陟傳」別名「奇遇録」という小説に書かれ、広くその存在が知られるようになった。

 紅桃の生年没日は記録にはないが、南原の鄭生との間に縁談が持ち上がり、それが「同じ村同士」だったとの記述(於于野談)から、南原出身だということが分かる。笛の得意な鄭生は歌もうまく陽気な性格であったが、学問には興味がなく、そのせいで紅桃の父の不興を買い、日取りまで決めてあった婚姻が流れそうになる。すると、紅桃は反対する。彼女の性格を物語るエピソードであろう。「婚姻とは縁です。すでに日取りも決まり、最初に約束を取り交わした人と結ばれるのが当然です。信義を違えてはなりません」

 この言葉からは、紅桃がしっかりとした意志の持ち主だということがうかがい知れる。同じ村同士でもあり、紅桃は鄭生のことが気に入っていたのであろう、無事婚姻し、その2年後息子が生まれる。名を夢錫といった。ところが、1592年、壬辰倭乱のさいに、鄭生は射軍として従軍、1596年には南原城を守るべく城内にいた。驚いた事に、紅桃は男装し夫と共に従軍するのである。父の反対を押し切り結婚し、もし戦場で死ぬことがあるなら共にという決意の表れであろうが、その思い切りのよさ、大胆さには舌を巻く思いである。

 息子である夢錫は、祖父と共に智異山に避難する。城が落ちたとき、鄭生は紅桃が援軍の明の兵士と共に脱出したと勘違いし中国に入り、乞食をしながら彼女を探し浙江に至る。ある日、道師と共に船に乗り月夜に笛を吹いていると、その横を行く船人が声をかけてくる。よく見ると、男装した紅桃である。南原城で別れて以来、数年は経過していたであろう。南原城が落ちる直前、紅桃は倭人に捕まり捕虜になり、日本に連れて行かれ、幸い男装していたため男として売られ、ベトナムの商船で世界中を旅しながら、夫との再会をあきらめずに働いていたのだった。わけを話し、道師の助けもあり、ふたりは船を降り、浙江のほとりに住む。次男夢眞が生まれ、17年が経つ。

 夢眞は先の戦乱で父が朝鮮に援軍で行って以来帰らないという中国人の娘と結婚し、4人は幸せに暮らしたが、また戦乱のため鄭生は従軍。いわゆる北征であった。捕虜になるが、朝鮮人であるため帰され、南原に帰り着く。その際、負傷した鄭生を助けてくれた中国人が、夢眞の妻の父親であった。南原で夢錫と父、夢眞の妻の父親と落ち着く事になる。一方、夫が死んだものと判断した紅桃は、反対する次男と嫁を説き伏せ、朝鮮に帰国することを決意する。長男と、舅の安否が気がかりだったのだ。大胆にも船を買い、物資と人を集め、次男夫婦には朝鮮語と中国語を教え、朝鮮、日本、中国の衣装を準備させる。海賊に出くわしたときのための用心である。1カ月と25日ぶりに、済州島沖の佳可島に着く。5、6日経ったある日、警戒水域を巡航する斜水船が島に着く。紅桃は先の戦乱での一家離散、浙江での再会、北征で夫が行方不明、船を買い故郷に帰ろうとする旨を申し立てると、許され、次男夫婦を連れて、南原にたどり着く。すると、夫と舅と長男が無事だっただけではなく、次男の妻の父親まで共にいたことにたいそう驚くことになる。事実があまりにも数奇で圧倒的なため、記録である「於于野談」と、小説である「崔陟傳」にさほど差異はない。外敵による侵略のため国土は荒廃し、人々は一家離散、それに続く飢饉や疫病。そんな中にあって、意志の強さと、大胆さ、機知に富むとっさの判断で、ついには幸せを掴んだ紅桃の実話は、当時の人々だけではなく、現代人にも最後まであきらめないことの大切さを再認識させてくれる。もちろん、紅桃を突き動かしていたのは、夫への深い愛情だったということはいうまでもない。(趙允、朝鮮古典文学研究者)

[朝鮮新報 2005.1.31]