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〈在日朝鮮人女性の人間的遺産〉 徐兄弟の母 呉己順さん@

はじめに

 私に与えられたテーマは「在日朝鮮人女性運動史と今後の課題」である。しかし、私は日本人であるうえに、男性である。したがって、私が在日朝鮮人女性をどれだけ理解しているか、まったく自信がなく「在日朝鮮人女性運動史と今後の課題」について語ることは、おこがましくて語りかねる。

 そこで、私が在日朝鮮人女性の一世から与えられた深い感動を語ることで、私に与えられた課題を多少なりと果たしたい。なぜ私が彼女たちから感動を与えられたかというと、彼女たちが戦前の植民地支配下の、また戦後は、南北分断下の民族的苦難にくわえて、女性差別の苦難を受けつつも、その苦難のゆえに、深い知恵を磨き上げて、優れた生き方をしてきたからである。朝鮮人女性は、朝鮮人男性以上に苦難を背負った。植民地支配の下では、民族の独立がもっとも優先的な課題とならざるをえないために、女性差別の克服は遅れざるをえなかった。

 戦後に於いても、統一の課題の達成や、在日朝鮮人の場合には、さらに日本国家の抑圧や、日本社会の民族差別との闘いに重点を置かざるをえず、やはり女性差別の克服は遅れざるをえなかった。在日朝鮮人女性は、民族差別と女性差別の二重の差別、それどころか、ハンセン病の在日朝鮮人女性は三重の差別と対決しつつ、深い知恵を磨き上げて優れた生き方をし、子どもを育て教育してきた。

 こうした在日朝鮮人女性の生き方を描いた作品は、管見の範囲では左記のようでまだ多いとはいえない。

 @むくげの会編「身世打鈴−在日朝鮮人女性の半生−」東都書房、1972年

 A呉己順さん追悼文集刊行委員会編刊「朝をみることなく−徐兄弟の母呉己順さんの生涯」80年(81年に社会思想社から「現代教養文庫」中の一冊として刊行)

 B朴守連述、蘇福姫記録「三重の差別を背負わされて生きる−ハンセン病・朝鮮人差別・女性蔑視を通して時代を語る−」『ひと』第175号、87年5月

 C平林久枝「わたしを呼ぶ朝鮮」社会評論社、91年

 D「百萬人の身世打鈴」編集委員会編「百萬人の身世打鈴−朝鮮人強制連行・強制労働の『恨(ハン)』−」東方出版、99年

 E李乙順(河本富子)著、桂川潤編「私の歩んだ道−在日・女性・ハンセン病−」、「私の歩んだ道」を刊行する会、01年

 F朴日粉編著「生きて、愛して、闘って」朝鮮青年社、02年

 G朴日粉、金潤順「生涯現役−在日朝鮮人 愛と闘いの物語−」同時代社、04年

 H金奉玉(山田昭次校訂、解説)「回想・大阪に生きたウリオモニ(私のお母さん)」「在日朝鮮人史研究」第34集、04年10月

 ここでは、長年にわたる韓国の獄中生活を非転向で生きぬいた、息子の徐勝、徐俊植を育て、励まして生涯を終えた呉己順を語って、私の責任を多少なりとも果たしたい。

一、徐兄弟事件

 徐兄弟事件と言っても、若い方々はご存じないかもしれないので、簡単に説明したい。

 71年4月20日、韓国陸軍保安司令部は、学園に浸透した朝鮮民主主義人民共和国のスパイ51名を逮捕したと発表した。この中に、在日韓国人母国留学生徐勝、徐俊植が含まれていた。この時は、大統領三選を目指す大統領朴正熙と、南北朝鮮の和解と交流、平和統一を政策に掲げた野党候補金大中との激しい選挙戦が展開していた時だった。

 徐勝は、45年4月3日、京都府北桑田郡周山町(現京北町)に、徐承春・呉己順夫妻の次男として生まれた。徐俊植は、48年5月25日、京都市右京区花園に三男として生まれた。徐俊植は、67年3月、京都府立桂高校を卒業して韓国に留学し、翌年4月にソウル大学法学部に入学した。徐勝は、68年3月に、東京教育大学文学部経済学専攻課程を卒業して韓国に留学し、翌年4月に、ソウル大学文理学部大学院(社会学)に入学した。徐勝は、71年3月6日に逮捕された。彼は、取調中に激しい拷問を受けて焼身自殺を図ったために、大火傷を負った。徐俊植は、3月中旬に逮捕され、いったん釈放されたが、4月18日に再び逮捕された。5月29日、徐兄弟ら17人が反共法、国家保安法違反容疑で起訴された。10月22日に徐勝に死刑、徐俊植に懲役15年の第一審判決が下された。

 72年2月14日、徐俊植に懲役7年の控訴審判決が下された。5月23日、徐俊植の上告は棄却され、懲役7年が確定し、矯導所という名の刑務所に送られた。11月23日、徐勝は、控訴審第二回公判の最終陳述で、豊かな統一された世界に誇るに足る祖国をもつことで、在日朝鮮人が、民族的自負心を確立し、民族差別による在日朝鮮人の悲劇を克服できると述べた。

 12月7日、無期懲役の控訴審判決が下されると、直ちに上告した。徐勝は、73年1月31日付の上告理由書で、民族統一の観点から反共法、国家保安法は時代錯誤的性格を持っていると批判した。しかし、3月13日に徐勝の上告は棄却となり、無期懲役が確定し、矯導所に移送された。

 78年5月27日、徐俊植は、刑期を満了したが、非転向を理由に社会安全法によるもっとも重い保安処分である保安監護処分を科され、依然として獄中に置かれることになった。

 その期間は2カ年であるが、非転向である限り何度でも更新されるものだった。

 80年5月20日、呉己順は、再発した子宮ガンで死去した。同年5月27日、徐俊植は保安監護処分を更新され、82年5月27日には、三度目の保安監護処分を決定された。徐俊植は法務部長官を相手取って「保安監護処分無効確認請求」の訴訟を起こしたが、ソウル高等法院は訴えを棄却したので大法院に上告した。(山田昭ニ、立教大学名誉教授)

[朝鮮新報 2005.2.7]