日本の中のオンドル遺構〜(上) |
朝鮮半島の冬は、シベリア高気圧の影響で、寒波が周期的に来襲し、氷点下以下の気温が数カ月続き、日本の冬とは較べものにならないほど厳しい。朝鮮民族は、この寒さを乗り切るため、工夫と知恵をこらしオンドルという独特の暖房施設を生み出しました。オンドルとは現在も朝鮮半島で使われている床暖房で、床下に石で作った煙道を多列並べ、その上に薄い板石を乗せて泥を塗り、さらに特殊な油紙を張って床とするもので、台所や室外の焚き口で火を焚き、その煙が、煙道を通って部屋の反対側の煙抜きから出るあいだに、床下から部屋全体を暖める仕組みになっています。
現在のこのようなオンドルは、高麗や朝鮮王朝時期に完成されたものであり、その形成にいたる変遷がそれ以前の千数百年にわたりました。ここでのオンドル遺構とは、古代のオンドル遺構のことであります。 朝鮮の古代オンドル遺構は、紀元前2〜3世紀頃のものが最も古いものとして登場するが、その後、発展変遷の遺構が朝鮮各地で発掘されています。 日本のなかのオンドル遺構は、古代朝鮮半島より多くの人々が、特に古墳時代、日本列島に渡来したなかで、自分の故地で作っていたオンドルを、日本でも作り、各地に残した遺構で発掘調査されたものであります。 日本のなかのオンドル遺構には、大きく分けて二種類があります。ひとつは、石組みの煙道が長くのびたオンドル遺構であり、もうひとつは、堅穴住居の壁に作りつけられた、煮炊きのかまどの煙道がすぐに室外に出ず、壁に沿って室内にのび、コーナーで外に出る構造のもので、通称「L字型かまど」と呼ばれているオンドル状遺構です。 まず、石組みの長い煙道をもつオンドルですが、現在まで発掘されたものは、滋賀県大津市の穴太遺跡、そして、奈良県高市郡高取町の清水谷遺跡、観覚寺遺跡があります。 この3つの遺跡では、渡来人の住居として張られている、大壁建物とオンドル遺構がセットで見つかっており、また、両地域は、いずれも渡来人の集中的に住んだところとして有名で、オンドル遺構が出るにふさわしい場所であります。穴太遺跡のある大津北郊地域は、古代の大友郷・錦織郷であり、三津氏・穴太村主氏・志賀漢人氏・大友村主氏など、百済系渡来人が集住していた地域であります。穴太遺跡のすぐ西方の比叡山麓一帯には、石室構造を持ち、送り式にドーム状に構築する、横穴石室墳が群集し、ミニチュア炊飯具セットの副葬品が、多数出土するなど、考古学的にも渡来人集住が明らかであります。
ここでは、7世紀前半のものとされている遺存状態の良いオンドル施設が3基発掘され、そのなかの一基は、大津市歴史博物館の前に、移転されていて、その説明には「穴太遺跡の特殊かまど(温突遺構)」とあります。 奈良県高市郡高取町の清水谷遺跡は、01年11月に、地元の製薬会社が工場を建設するための事前の発掘調査により発見されました。 大壁建物3棟が発掘され、その中の一棟に、オンドルが伴っていました。5世紀後半頃のものといわれ、日本で見つかりました。オンドル遺構としては最古のものと言われます。清水谷遺跡のオンドルは、穴太遺跡や、観覚寺遺跡のような、石組み構造は確認できませんが、焚き口や煙道に、煙溜の溝などもある本格的なものです。煙溜とは、煙道の形態などによって違いはあるが、床の一端ないし、二端に溝状に堀り、その大きさも煙突に近い方は小さく、遠い方は大きくして煙道を通る煙の量が均一になるようにするものであります。 同じく高取町の観覚寺遺跡は、近鉄壺阪山駅東300メートルに位置し、町道の建設に伴う試堀によって04年1月に発掘されたものであります。この遺跡でも清水谷遺跡同様、オンドルと大壁建物がセットで出ています。 両遺跡のある周辺は、5世紀初頭、百済からやってきた東漢氏の拠点のひとつとされています。東漢氏は、朝鮮半島からすぐれた文化や、技術を日本に伝え、古代日本の礎を築くことに大きく貢献し、6世紀中葉には、大和政権のなかで頭角を現し始め、時の最高権力者蘇我氏と密接な関係を保ちながら、繁栄を重ね、8世紀の初め頃には、およそ高市郡に東漢氏に連ならない者は、十に一か二に過ぎないと言われるほどでありました。(李相才) ※李相才:京都にある渡来人遺跡研究会に所属。99年1月「京都のなかの朝鮮」、02年7月「滋賀のなかの朝鮮」出版に携わる。51年生まれ、現在、会社員53歳。 [朝鮮新報 2005.2.11] |