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〈在日朝鮮人女性の人間的遺産〉 徐兄弟の母 呉己順さんA

 1983年5月29日に、父の徐承春も大腸ガンのために永眠した。84年5月27日に徐俊植は、上告の結果を見ぬままに、4度目の保安監護処分を決定され、「保安監護処分無効確認請求」の第二次訴訟を起こした。しかしソウル高等法院も、大法院も、徐俊植の訴えを棄却した。

 86年5月27日、徐俊植は、5度目の保安監護処分を決定され、第三次訴訟を起こし、ソウル高等法院がこれを棄却すると上告した。

 87年3月3日から、4月22日までの51日の間、徐俊植は、社会安全法撤廃と身柄の釈放を要求してハンストを行った。6月10日、民主憲法制定要求と警察の拷問に対する批判が合体して6月抗争が始まり、その結果、10月27日に国民投票で大統領直接選挙改憲が確定した。こうした民主化闘争の進展と、獄中の本人の闘争の結果、88年5月25日に徐俊植は、保安処分を住居を当局が指定する場所に制限する住居制限処分に減じられて出獄した。12月21日には、徐勝が懲役20年に減刑され、90年2月28日に仮釈放された。

 現在、徐勝は、立命館大学教授、徐俊植は93年に韓国の「人権運動サランバン」を創設し、01年までその代表を務めた。

 生い立ち

 呉己順は、朝鮮忠清南道公州にほど近い農家に生まれた。生年は、書類上は20年、本人が語るところによると、22年である(呉己順さん追悼文集刊行委員会編・「朝をみることなく−徐兄弟の母、呉己順さんの生涯−」80年、15頁。以下本書から引用する場合は、頁数のみ記す。)渡日して京都に来たのは、本人の記憶によると、27年3月7日に起こった丹後地震の一日、2日直前だという(11頁)。彼女の生家はひどく貧乏で「食べるのが精一杯」の農家だった(13頁)。彼女の父は、母にも黙って渡日したらしい。植民地支配下の貧困に耐えられなくなり、自暴自棄になっていたからであろう。父は、京都の太秦の地主兼風呂屋の荷馬車曳きになった。彼女は、その母や兄と共に、父の後を追って京都に来た。乗船を待つ釜山の旅館で、一膳の食事を母子3人で分かち合ったという(徐京植「長くきびしい道のり−徐兄弟・獄中の生−」影書房、88年、01年、229頁)。

 呉己順の兄は、京都の二商に入学したが、学費が続かず、一学期で退学した。

 彼女は、小学校にも行けなかった。彼女の母も、お金が要るし女の子だからと言って、呉己順を学校に行かせることは頭から思っていなかった(16頁)。

 呉己順は、ある朝鮮人が自宅で無料で開いた夜学に通ったこともあったが、貧困と父母の無理解のために、1カ月ほどでやめなければならなかった(徐京植、前掲書、230頁)。

 徐俊植の回想によると、彼が幼かった頃、彼女はカトリック教会の夜学に通ったことがある。しかし、5人の子どもを育て、夫が経営する家内工業の仕事をしなければならないので、通い続けられず、「あ、い、う、え、お」を覚えた範囲に終わってしまった(徐俊植著、西村誠訳「徐俊植獄中書簡」柏書房、92年、83頁)。

 彼女は、文字が読めない苦痛から脱却しようと努力したが、貧困と女性差別のために目的を達成できずに終わった。

 当時、在日朝鮮人のみならず、母国でも男子はなんとかお金を工面して学校に行かせようとしたが、女子は、学問はいらないと考えて、学校に上げないのが親たちの一般的な通念だった。30年当時、朝鮮の府の普通学校の場合、男子のそれは60.4パーセント、女子の就学率は30.2パーセントだった。邑・面の男子の普通学校就学率は26.7パーセント、女子の就学率は、わずか5.1パーセントだった(呉ソンチョル「植民地初等教育の形成」ソウル、教育科学社、00年、137頁)。

 女子の就学率の低さの原因は、植民地支配下の貧困とともに、女性差別である。27年に慶尚北道に生まれた李乙順も7歳の時に、母と共に渡日した父の後を追って島根県に来た。やはり小学校に上げてもらえなかった。李は今も「私、一番悔しくて悲しいのは、字を知らないということ。それでみんな馬鹿にするの。それが悔しい」という(李乙順(河本富子)著、桂川潤編「私の歩んだ道−在日・女性・ハンセン病−」、「私の歩んだ道」を刊行する会、01年、48頁)。

 母国の女性、在日の女性を問わず、その多くが女性差別のために文字も学べなかった苦痛と悲しみを心に秘めて生きた。呉己順もその一人だった。(山田昭次、立教大学名誉教授)

[朝鮮新報 2005.2.14]