top_rogo.gif (16396 bytes)

絆−家族の姿[2] 母子家庭−母に告げぬ想い、子に言えぬ痛み

 「離婚は女性にとって不幸なこと。でも、母は強い。何よりも子どもに対する愛情が強い。私がこうしているのも母のおかげ。あきらめ癖のある私にとって、がむしゃらに働く母の背中は無言の教えだった」と、大阪で看護士をする劉順花さん(27)は言う。

 彼女の母親・任良子さん(57)は、大阪朝高のすぐそばでお好み焼き屋「笹」を営んでいる。闊達な性格。定休日の夕方店を訪ねると、2階の住居でおいしいお好み焼きを振舞ってくれた。

3人の子を連れて

家族と一緒に(大阪・海遊館で。後ろから長男、次男、次男嫁、娘、任さん、長男嫁)

 23歳で結婚。3人の子どもを儲けるが結婚生活16年目にして夫婦関係に亀裂が生じた。長男、次男が中3、中2、娘はまだ初級部だった。子どもたちを学校に通わせるため、昼間はスーパー、夜は店で働いた。育英資金も受けていた。睡眠時間は1日3時間程度。それでも、離婚を理由に、子どもたちを日本学校へ通わせようとは思わなかった。それは幼い頃、日本の学校で「チョーセン」といじめられた自身の体験に基づいている。任さんは中学生の時の夏期学校がきっかけで、中大阪の朝鮮学校に編入した。「それはもう楽しゅうて、楽しゅうて。こんなええとこないと思った。朝鮮の人がこんなに大勢いることも知らなかった」。

 同胞コミュニティの温かさと居心地のよさを知った任さんは、民族教育の必要性をこう語る。

 「日本に住んでるから朝鮮語は必要ないと言ってしまったらおしまい。朝鮮語も、日本語も、英語も知ったら良い。経済的には日本の学校へ送ったら何もいらないけど、朝鮮人は朝鮮学校行かなどうやって朝鮮の心を育てるん? 子どもの教育で迷ったことなんてない。このことに対してはチャランチャゲ(誇らしく)言えんねん」

大学行きたいと泣く息子

お好み焼きを作る任さん

 そんな母の思いが伝わったのか、子どもたちはまっ直ぐ育っていく。長男・劉順道さん(33)は朝高卒業後、朝銀に就職。毎月8万円を欠かさず家に入れ続けた。次男・劉順植さん(32)にはこんなエピソードがある。

 朝高卒業後は兄と同じく朝銀へ就職することになっていた卒業前、母がパートを終えて帰宅すると、うずくまっている次男の姿があった。「朝鮮大学へ行きたい…」と。経済的な事情を考えて、母には告げられぬ思いがあったのだろう、と任さんは話す。

 「次男は特待生として朝大の『3年制』(教育学部)へ行くことになった。寮で使う布団を朝高の先生方がプレゼントしてくれた。周りの助けがあってできたこと。それを忘れたらあかんわ」

 次男は現在、西東京第1初中で教鞭を取っている。「先生たちは、給料が少なくて生活するのは大変。日本の行政から教育助成金が日本の学校のように出ればあの子らも少しは楽やけど…。でも、ウリハッキョ(朝鮮学校)はええで。日本の学校にはできない良い経験させてもらっとる」。

 順植さんは2年前、同僚の教員と結婚したが、独身時代は西東京第2のオモニたちが毎日交代で「お弁当」を作ってくれたと言う。

 「なかなかできへんで。えらいこっちゃ。これもウリハッキョやからできること。そこのオモニが、息子が結婚して『やっと弁当から解放されますわ』と言ったんやて。いつもおいしく作ってくれて、ほんまに感謝、感謝やわ」

人生前向きに

担任の村上先生(右が任さん)

 任さんは一昨年、資格を取るために桃谷高校(通信制)に通っていた。「看護士やら保母さんの資格を取ろうと思ってな」。大阪朝高へ行き、卒業証書をくれと言ったら「オモニ、何をされるんですか?」と聞かれた。「子どもも行っとったし、できると思った」。ヘルパー2級の資格も取得。

 しかし、実習のとき、ヘルニアが発症。「あかんわ。自分が介護してもらう年になっとった。それでやめた」。

 任さんは人生を振り返り、子どもたちに一番お金がかかる時期に出て行った夫に対してさびしい想いをしてきたことも語った。「子どもたちはみな縁あってうちのところへ来たんやろ。3人ちゃんと育つように頑張った。今はある程度責任を果たしたという想いがある。アボジは途中でおらんようなったけど、良い家族に巡りあったと思ってる。悔いはないよ」。

 息子2人は結婚し、今は末娘と暮らしている。順花さんは「オモニは子どもには言えないシンドイこともきっとあったはず。でもそれを決して見せずあふれる笑顔で家族を愛してくれた。スゴイオモニです」と話した。(金潤順記者)

[朝鮮新報 2005.2.21]