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〈在日朝鮮人女性の人間的遺産〉 徐兄弟の母 呉己順さんB

 呉己順は、10歳にもならないうちから西陣の織屋その他で、子守奉公をし(徐京植、前掲書、230頁)、12〜3歳からは、西陣の織屋の織り子となった(20頁)。当時、西陣の零細な織屋は、低賃金の朝鮮人を雇用することによって経営を成立させたので、西陣には朝鮮人が多く雇用されていた(徐君兄弟を守る東京教育大学元教官、同窓生の会編・刊「韓国獄中政治犯 徐兄弟の半生と思想」改訂版、86年、6〜7頁)。

 呉己順は、子守奉公をしていた頃、祭の時に買った木履(ぽっくり)が道の石ころのために割れてしまい、その割れた木切れがもったいなくて、柳行李にそのまましまっておいたという(100頁)。その頃の在日朝鮮人の貧しさを示す物語である。

 呉己順は、奉公先で大切にされると、自分は朝鮮人なのに、うっかりして日本人になりはしないかと、不安になって家に帰りたくなったという。彼女は、素朴だが、民族差別に負けない自立した民族意識を幼少期から持っていたのである(17頁)。

 結婚生活

 呉己順は、40年に徐承春と結婚した。2人とも19歳だった。同郷のよしみで、呉己順の意志とは無関係に、双方の父親が取り決めた縁組みだったから、本人たちは婚礼の日まで、顔を合わせることはなかった(23頁)。本人の意志と無関係に、女性が結婚させられるのは、当時では一般的なことだった。呉己順も当時を回想して「昔は道具みたいなもんでしょ。嫁さんて」といった(22〜23頁)。

 2人は、最初は京都府北桑田郡周山町で暮らしたが、後に京都に移った。徐承春は、各地で糸くずを集めて、綿の加工所に売り渡す行商人をした。そうしているうちに、徐承春に徴用令状が届いた。呉己順は、警察に駆け込んで「こんな徴用令状が来たけど、主人はどこに行ったかわからしまへん。佐渡島のほうにいったと思います」と言って泣いた。警官は「そらしゃないな」と言って、印鑑を押し、それでことが済んだ(29頁)。彼女が生活の中で身につけた、したたかな知恵だった。

 このことがあった後、徴用を避けるために、再び住まいを周山町に移した。徐承春は、相変わらず糸屑買いをし、呉己順は小作地で農業をした。しかし、供出がきびしく、米も麦も手元にろくに残らず、木の芽も摘んで食べた(30〜31頁)。村人たちは「うちの畦道、チョーセンが歩いてる」とか、「ここにいてもチョーセンが山行って荒らす」などといって白眼視した(32頁)。ここでも徴用令状が2〜3回来た。彼女は、今度は本当に夫を佐渡島に逃がしてことを済ませた(30頁)。

 日本の敗戦を迎えて呉己順はほっとした(34頁)。しかし、筆者が呉己順から聞いたところによると、「朝鮮から日本人が引き揚げてきたら、ひどいめにあうかもしれない」という不安も夫妻は抱いた。その不安のために田舎にいたら危ないと思って京都に戻り、夫は糸商売を続けた。やがて、織物の町工場を持つようになった。夫妻それぞれの両親は朝鮮に帰った(34〜35頁)。

 子どもの育て方

 夫妻の間には、5人の子どもが生まれた。長男善雄(41年生)、次男勝、三男俊植、四男京植(51年生)、長女英実(55年生)である。

 呉己順の教育方針の第一は、民族差別に負けない子に育てることだった。どの子にも「朝鮮人てなんにもわることしてへんのやし、悪うないのやで」、「朝鮮人か?」と聞かれたら「ハイッ!朝鮮人です」といわなければいけない。「『チョウセン!』といじめられたらな、なんにも悪いことしてへんのやからしっかりせなあかんで」と教えた。徐勝は、小学校の時、教師が「あんたは朝鮮人か?」と聞いたら、勝は「ハイッ」と言って立って「大きくなったら飛行機に乗って朝鮮に行くさかい、見送って欲しい」と言った(36頁)。

 徐京植の回想によると、彼が小学校三年生の時に、担任の教師が彼の家を訪れた。生徒の一人が京植に殴られて、こぶをつくったので、親に一言あやまって欲しいということだった。しかし呉己順は、平然として「よう調べてください。うちの子はわけもなしに乱暴するような子と違います」といった。あれこれ言い合っているうちに、その子が「朝鮮人!」とののしったことに発端があることがわかってきた。呉己順は「朝鮮人やからいうていじめられて黙っているような子には育てません。うちでは、そんな教育してません」と言った(209〜210頁)。(山田昭次、立教大学名誉教授)

[朝鮮新報 2005.2.21]