絆−家族の姿[3] 大家族−朝鮮学校の運動会で3回走ったアボジ |
朴東煥さん(56、広島県福山市)は、妻・金寿男さん(52)と、5人の子ども(栄輝・30 長女、鐘愛・28 次女、明愛・27 三女、日善・26 長男、景愛・24 四女)をもつ7人家族。 自宅の一室には、結婚以来約30年間集めつづけた、朝鮮新報、朝鮮画報、イオ、そして日本の新聞の朝鮮関連記事を切り抜いたスクラップファイルが、ずらーっと並べられている。 山口県下関市の大坪トンネで生まれ育った東煥さんは、いわゆるバリバリの「熱血朝鮮人」。 日本暮らしの長い同胞たちが、日頃、日本語を使うことに対して「なぜ、みんな朝鮮語を使わないんだ。使わないとどんどん忘れる。僕はイルクン(活動家)ではないけれど、つねに朝鮮語を使っている」と、「渇!」を入れる。 貧しかった時代に朝鮮学校に通わせてくれた両親への感謝の気持ちから、朝鮮語を使い続けなければならない、との思いは強い。 知的障害 73年に結婚。最初に生まれた子どもは知的障害を持っていた。結婚直前に東煥さんの父と弟が亡くなるなど不幸続きだったこともあり、心機一転、下関から福山に引っ越した。もともと5人兄弟だった東煥さんは、様々な理由から兄弟4人を亡くしている。妻の寿男さんは、「夫のため、20代のうちに5人産んじゃろと思った。夫は兄弟を亡くして淋しい思いをしとるだろうから」と話した。 子宝にも恵まれて、夫婦二人三脚で仕事と家事、子育てに励んだ。 「夫は何事に対しても、とことん話し合うことを重んじる人。子どもともしっかり向き合い、きっちり話し合う。上の子をしっかり教えると、その子が下の子の面倒を見る。うちの場合、1番上が障害を持って産まれたけど、夫婦はもちろん、子どもたちともしっかり話し合うことで、家族がすれ違ったり、溝ができたりせずに来れたと思う」(寿男さん) 家族みんなで
家では日曜日になると、家族全員で掃除に取りかかる。父親をはじめ、障害を持つ長女も、その下の妹、弟たちもみな分担された場所を掃除する。そして午後から外出。近くの海や山によく遊びに出かけた。 「子どもたちには小さい頃から、玄関の靴を揃えることと、挨拶をすること、食後の片付けなどは厳しくしつけた」と東煥さん。「みんなで家事をすると早く終わる。妻も手が空けばみんなで一緒に出かけられる」。 それは、自身が朝鮮学校で学んだ「労働を愛そう!」との精神とも重なるという。 幼い頃からしつけられたこともあり、子どもたちは皆、「掃除が苦にはならない」と話す。家事を分担し、空いた時間は皆で映画を見たりする。見終わった後は感想を述べ合う。お互いの見方や感性がわかっておもしろい。 朝鮮学校に編入 東煥さん宅では、長女が中学校に上がるのを見届けて、下の子4人を朝鮮学校に編入させた。 それまでは長女に手がかかり、妹・弟たちを遠くの学校へは送れなかった。「学校では栄輝(長女)も受け入れてくれると言ってくれたのですが、迷惑がかかると思って断った」。 5年、4年、3年、1年生に新メンバーが加わった。子どもたちは往復3時間の道のりを苦ともせずに登校した。
東煥さんは、朝鮮学校で迎えた初の運動会で、「息子・娘自慢」の競技中に、次女の手を取り運動場を3回走った。 その姿を記した次女・鐘愛さんの日記をもとに、在日朝鮮人詩人の盧進容さんが「3回走ったアボジ」という詩を発表している。 先生もはじめは私をそっとさがし/2度目はおどろきながらまたさがし/3度目はあきれて笑いながらさがし/それこそ運動会はアボジの舞台となりました(詩「3回走ったアボジ」から) 鐘愛さんは「アボジはそのとき、私たちを日本の学校に通わせていて、それまで走れなかったウリハッキョの運動会ぶんをまとめて走った」と考える。 5人の子どもたちのためにオモニは「カギャピョ」を作り毎晩のように朝鮮語を教えた。 アボジはトイレの中にも単語カードを貼り付けた。両親は、朝鮮学校の生徒に対してJRの学割が利かないことに抗議して行動を起こし、スクールバスを買い替えるために、総聯、民団同胞宅を分け隔てなく訪問した。 夫婦二人三脚で歩んできた人生は、いつのまにか「7人8脚」で歩むものに変わっていた。子どもたちは現在、長女・栄輝は共同センターで働き、看護師をしていた次女・鐘愛は結婚して子育てに奮闘中、三女・明愛は岡山初中の教員で1年生の担任、長男・日善は岡山地域商工会で働いている。 そして、四女・景愛は広島朝鮮幼稚園で幼児たちを相手に格闘の日々を送っている。(金潤順記者) [朝鮮新報 2005.2.28] |