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〈在日朝鮮人女性の人間的遺産〉 徐兄弟の母 呉己順さんC

 第二の教育方針は「子どもの気持ちをね、第一に、まっ直ぐに育てる。勉強できるできないは関係ない、子どもの気持ちをそらさへんようにまっ直ぐに育てる」ことだった(41〜42頁)。

 この点では、呉己順は厳しい母だった。徐京植が小学生の頃、ひとりの農夫がリヤカーをオートバイで引いていた。京植は「オッチャン、家までリヤカーに乗せて。そしたらこのミカンをあげるよ」といって、乗せてもらった。家の前にくると飛び降りて、思いっきりアカンベーをして「やっぱりミカンやらへん!」と言った。京植はこのことを得意になって呉己順に話すと、彼女は京植をしたたか叩いて「人をだましてよろこぶような子にいつからなった! ミカンひとつがそんなに惜しいか! お百姓さんをだましてそんなに面白いか!」と言い、ついには彼女自身泣きながら京植を叩いた(20〜21頁)。どの子も学校で「お母さんが一番こわい」と言っていた(42頁)。

 前述のように、67年に徐俊植が母国留学した。呉己順は、心配して「行かんとき」とも言った。しかし反面「やっぱり行かしたほうがええわ」とも思った。その理由は「上の子ね、大学卒業してたんかな、学校出てみたら、あの、することがないんですわ」ということだった(44頁)。

 善雄は、東京教育大学大学院修士課程まで進学したが、卒業しても就職口はなかった。呉己順は、その苦い体験があるために、徐俊植を民族差別のない韓国で大学卒業後に、希望の進路を進ませてやりたかったのであろう。徐俊植は、最初から韓国に永住するつもりだったのである(45頁)。私が本人から聞いたところによると、彼は、母国で統一を図ろうと考えていたのである。

 徐勝、徐俊植の投獄

 71年4月20日、徐勝、徐俊植たちの逮捕が発表されて、一週間ほどして呉己順はソウルに行った。息子たちがどこに拘束されているかもわからず、あちこちを探した。弁護士に頼んで、徐俊植が拘置所にいることが分かったが、公判までは会わせられないといわれた(57頁)。

 こうした状況で呉己順は衝撃と困惑の中にいた。事件直後に呉己順に接した共同通信ソウル特派員菱木一美は当時の呉己順を次のように回想した。

 「取るものも取りあえずソウルに飛んできたあなたは、宿舎KALホテルの一室でただ震えておられた。息子たちを救い出さなければならないという、固い決意と、しかしこれから直面する韓国当局との困難な対応への不安。薄暗いホテルの部屋でうずくまるように座り『こんなことになって−。どうしたらよいか』と、私に問いかけた。暗い出逢いでしたね」(153頁)。

 呉己順はその後、急速に苦難の中で叡智を磨き成長するのだが、当初は、衝撃を受け、途方にくれたのである。当時来日していた、池明観は「韓国では弁護士がどんなに弁護しても、検事の言う通りに裁判がされてしまいます。ですから弁護士も、被告もできることは後世に遺産を残すことです」と、韓国の厳しい状況を、私に語った。そうした状況の時のことである。

 私がはじめて呉己順に会ったのは、72年11月初旬に、徐勝の控訴審公判を傍聴するためにソウルを訪問した時だった。YMCAホテルで呉己順は「勝たちには、どこへ行っても朝鮮人だと言って生きていくように育てました。それがこんな結果になってしまった」と無念さを語った。

 「息子たちの事件が起こって、あらためて韓国のことを考えるようになりました」とも語った。息子たちの投獄に接して、分断によってゆがめられてしまった韓国の姿を見つめたのであろう。この時、呉己順は、本屋まで私と行ってくれて、本の値段の値引き交渉もしてくれた。この当時は、現在とちがって、韓国では新本も交渉によって値引きできたのである。私はそのことを呉己順に教えてもらった。本の値引き交渉をする呉己順の姿を知らない人が見たら、ごく普通の観光客に見えたであろう。こうしたところに、他者に親切な彼女の人柄が現れている。

 呉己順が獄中の息子たちに面会するのも容易ではなかった。面会をさせられないこともあったのである(61〜62頁)。

 面会できた場合も、一目顔を見るだけの短時間で、ある時は「一切口をきかないこと」を条件として、ようやく面会できたこともあった(徐京植、前掲書、231頁)。

 獄吏は、転向の勧誘を面会の条件にしたこともあった。しかし呉己順は「私は無学だから、転向などというむずかしいことはわからない」と言い通して切り抜けたという(149頁)。(山田昭次、立教大学名誉教授)

[朝鮮新報 2005.2.28]