霊通寺の復元について |
既報のように2月18、19日の両日、東京で開かれた「高麗開城の文化遺産的価値と保存」ワークショップで発表された西谷正・九州大学名誉教授の「開城の歴史遺跡群−スライド上映−」について、全浩天・在日本朝鮮歴史考古学協会会長の「開城付近の高麗期遺跡について−日朝共同調査の成果を中心に−」の報告要旨は次の通り。 在日本朝鮮歴史考古学協会会長 全浩天さん 高麗時代に造られた開城市の羅城と、大興山城の歴史遺跡および初の日朝共同学術調査による霊通寺発掘調査、そして高麗時代の王陵と、高句麗文化にかかわる若干の問題について申し上げたい。 T 開城市の羅城について
918年、王建が泰封国を倒して、高句麗の継承者として高麗を建国した。高麗の都は、今日の開城である。高麗王朝の最初の都城は、開城市の北側に聳える、松嶽山の南麓の勃禦塹城である。この都城は、かつての泰封国が896年に築造したものであるが、そのまま利用された。ところが、高麗に対する契丹族による993年の第一次侵攻以来、三次にわたる侵略を受けて首都を防衛する城の必要性を痛感した。こうして高麗は、開城の都市全体を取り巻き、防衛する羅城をもつ都城を築くことになった。 1009年から21年をかけて、首都城の外城である開城の羅城を築造した。 開城羅城の長さは、23キロメートルに達した。この壮大な開城羅城は世界遺産にふさわしい。開城羅城は、北側の松嶽山の山並みから西、南、東側の高く、低い峰や丘陵を結んで築造された。王宮である満月台をはじめ、今日の開城都市部が包まれている。 羅城で今日まで良く残っている部分は、北側と西側の城壁である。これらの城壁を見るならば、石で築いた石壁と土を叩き締めて造った土壁である。城壁の高さは4メートル前後である。城壁の幅は、下部で7〜8メートルである。城壁上には、戦闘用の矢を射る射撃台も造られた。また、羅城には迫る敵を迎撃する甕城も設定されている。 U 日朝共同学術調査−霊通寺跡に対する朝鮮社会科学院考古学研究所と日本大正大学との共同発掘調査とその復元について 霊通寺跡は、開城市龍興洞に在り、信仰の山、五冠山の南麓に位置している。開城市の中心地からは東北方向に約10キロメートルである。 霊通寺は、朝鮮天台宗の始祖、大覚国師義天が、得度して仏門に入り、そこで入寂したゆかりの寺院である。高麗と朝鮮王朝時代の文人は、松都(開城)から霊通寺に入り、霊通寺から大興山城にのぼり、朴淵瀑布、観音寺などを訪ね、景勝を楽しむ。そして、立ち並ぶ信仰の山、天摩山、聖居山、五冠山の形姿に感嘆した。 この霊通寺跡に対する共同発掘調査が、朝鮮社会科学院考古学研究所と、日本大正大学によって行われた。これは、初の日朝共同学術調査である。この学術調査には在日朝鮮歴史考古学協会も参加している。 一、霊通寺跡に対する発掘調査
発掘調査は、1997年秋に霊通寺跡に対する現地調査を行い、それに基づいて1998年(第1次発掘、第2次発掘)と、1999年(第3次発掘、第4次発掘)の二度にわたる基本的発掘調査が行われた。 霊通寺跡は、約3万平方メートルにおよぶ広大な面積を占めている。その遺跡は、@入口区域A広場区域B基本伽藍区域C義天の墓室区域D浮屠区域からなっている。 @入口区域は、小川に架かる橋から霊通寺の南門にいたる広い区域。 A広場区域は、南門から中門に至るまでの地域。その東西の両側には、幢竿支柱(西)、大覚国師碑(東)が建てられている。 B基本伽藍区域は、中門築台から北側までの区域であるが、この区域はまた西側と東側に区分される。基本伽藍の西側区域には、1基の5層石塔を中に挟んで2基の3層石塔が東西に並んで建っている。基壇上には、4つの建築址と回廊址があった。基本伽藍の東側区域には、2つの建物址と回廊址が南北に配置されていたことが確認された。これらの区域の文化層と建築跡は、後世の農耕地と建物によって酷く攪乱され破壊されていた。 C義天の墓室区域は、大覚国師碑の碑文が記しているとおりに霊通寺の東北端に位置していた。義天の墓室跡と祭壇跡は明確であったが、かなり破壊されていた。義天は、1101年10月5日に入寂、11日後に荼毘にふされ、11月4日に霊通寺に埋葬された。 D浮屠区域は西北端に位置していた。八角塔形の浮屠とその左右には建物跡があり、祭壇施設とその南側には南門跡が確認された。 義天の舎利塔である八角塔は、基壇石をそのまま残して、他の建物と共に崩れ、散乱していた。 二、霊通寺跡についての考察 発掘調査の結果、霊通寺は、高麗初である10世紀初に建立された伽藍から朝鮮王朝の16世紀頃に消滅した伽藍に至るまで、おおよそ3次にわたって伽藍形態の変化があったものと認められる。霊通寺跡の文化層が大きく3つの層になっているからである。 第1次伽藍は、第3文化層、第2文化層の下にあった。第2次伽藍は、1次のよりも規模が著しく大きくなったのであるが、この時期は、大覚国師義天が霊通寺に入った時期に前後する11世紀後半期か、12世紀初から13世紀末、14世紀初までであったものと思われる。霊通寺の建立時期は、発掘された瓦と磁器から高麗初期である10世紀初と推定されている。また、5層の石塔を中に挟んで、2基の3層の石塔が東西に並列しているが、この2基の3層の並列形式は、後期新羅であるため高麗初期のものと推定されるからである。 廃寺時期は「嘉靖43年」即ち1564年の記念銘がある軒丸瓦によって、霊通寺が16世紀まで存在したことは明らかだが、16世紀末から17世紀中葉頃までに火災によって消滅した。 しかし、霊通寺跡に対する共同発掘調査の成果に基づいて、現在、霊通寺の復元事業が本格的に進められている。近いうちに完成を見るであろう。 開城の遺跡群 九州大学名誉教授 西谷 正さん 統一新羅時代末期の動乱期に、朝鮮半島中西部に当たる松獄郡、すなわち現在の開城の豪族・王建(太祖)は、秦封の王であった弓裔を追い出して王位に登り、国号を高麗とした。それは西暦918年のことである。王建は首都を開城に定めた後、935(太祖18)年には新羅を平和的に併合し、さらに翌年に後百済を滅して全国を統一した。 高麗の首都があった開城は、朝鮮半島の中西部、旧京畿道の西北部に位置するが、現在は、朝鮮民主主義人民共和国の開城地区開城市に属する。開城には、高麗の都城・山城、寺院などの遺跡群が数多く知られ、また、古い民家群は古都の面影を現在もよく残している。 太祖王建は、その2(919)年から宮殿を造営し、坊里を5部に分けたといわれる。王都は当初、北の松嶽、南の龍岫山をはじめとする、自然地形を防衛戦としたが、顕宗代に至って契丹の侵入に備えるため、周囲に土築と一部重要部分に石築の羅城が築かれることになり、その20(1029)年に完成したと伝えられる。総延長36.2kmの城壁には、大門4、中門8、小門13の合計25の城門を開いたことが「高麗史」に見える。その中には、発掘調査が行われたものがあり、各種の文献資料を参考にして、城門の比定が試みられている。 西大門に限って紹介すると、南方に会賓門、東南方に長覇門、東方に崇仁門、そして西方に宣義門がそれぞれ特定されている。 松獄南麓には、満月台と呼ばれる王宮跡がある。宮城の正門である昇平門を入って奥に進むと、さらに神鳳門、閭闔門が南北一例に立ち並んでいた。その背後の高台には、正殿である会慶殿のほか、長和殿、元徳殿、乾徳殿などが偉容を誇っていた。それらの建造物は高麗末期に消失したが、現在王宮跡には、殿堂や門廊の礎石がよく残り、その付近では、階段に使われていた石龍頭が存在し、現在、多数の瓦★が出土する。満月台に対して共和国では、一部で発掘調査を実施し、現在、苦干の研究も知られる。 都城内では、広明寺、明寺、法王寺などの諸寺院の造営が相次いで行われたが、寺院跡の実態は、2、3の例を除いて、必ずしもよくわかっていない。そのうち、開城市の北東12kmほどのところに位置する板門郡の仏日寺跡は、貯水池で水没するため、1959年と翌年に発掘調査が実施され、重要な成果を収めた。仏日寺は、第4代光宗の2(951)年に創建されたが、朝鮮時代になって漢城へ遷都されてからは廃寺となっていた。調査の結果、寺域は3つの区画からなるが、中央区画では主要建物が南北一直線に並ぶ、一塔式の伽藍配置であり、その西側にも塔を欠くが、付属伽藍をもつことがわかった。そのほか、舎利壇をはじめとする周辺の施設郡が明らかにされた。また、五重石塔の移築に伴う解体工事の際、第1層と第2層の塔身内部から金銅製塔3、小形石塔22、舎利合子3が検出された。そして、金銅製塔のうち、九重塔内からは、綿布で包まれた紙製陀羅尼経とガラス製瓶、念珠も見つかった。 開城市から北へおよそ26kmの地点に築かれた大興山城は、海抜762mの高所に立地する。石築の城壁の総延長が7、800mに自然の絶壁を利用したところが2、300mという巨大な山城として、首都防衛の重要な役割を担っていたとされる。しかし、当時の交通ルートから離れた立地や防禦正面の位置をみると、首都からの避難城の可能性も考えられる。 ★土へんに宣 [朝鮮新報 2005.3.4] |