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〈在日朝鮮人女性の人間的遺産〉 徐兄弟の母 呉己順さんD

 獄吏は、また息子を転向させるために、息子の前で泣けといった。しかし呉己順は「もう涙枯れ果てました。私は韓国と日本を通い詰めて、その道々涙流して来たさかい、もう涙出えしません」と言った(63〜64頁)。このような対応の仕方は、苦難の中で彼女が身につけた知恵だった。

 なぜ彼女は息子に転向を勧めなかったのか。彼女はこういった。

 「子どもら絶対、まちがっていないのにね。お前、曲げてなんでも悪うございましたと言えと、そういうことは言えませんけどね、言えというような気持ちだけは持ちとうないんですね。そのまま救い出してね、まっすぐまっすぐ、人間死ぬまで勉強ですし、まっすぐまっすぐ社会に出てきてもね、勉強して欲しいと思います」(81頁)。

 彼女は、幼少期の子どもたちに対する、教育方針を獄中の息子たちに対しても、そのまま一貫して維持していたのである。

 徐兄弟のすべての裁判が終わって1年ぐらい経った時、私は、京都嵐山のお宅に呉己順を訪ねた。彼女は「当分こうして泣いたり笑ったりして暮らしていくよりしかたがないでしょうね」と言われた。兄弟を救出する展望が全くなかった時期である。甘いことを言っても、何の慰めになりはしない。私は返す言葉に窮するのみだった。私がいくら辞退しても、彼女は私を家の外まで見送り、別れ際に彼女は「結局、息子たちの意志にそう以外にないでしょうね」と言われた。それは私に言うよりも、自分に言い聞かせる言葉のように思われた。彼女は、祖国の分断状況を克服しようとする信念を貫こうとする息子たちを励ましたいという気持ちと、なんとしても息子たちを自分の手元に取り戻したいという気持ちが葛藤していたのであろう。呉己順は、その葛藤を超えて前者の意志を貫いたのである。

 獄中の息子を励ますために、呉己順は、血がにじむ努力を重ねた。その渡韓回数は、約60回に及んだ。

 彼女は、渡韓のために50歳を過ぎてから文字を習い始めた。空港を通関する時、ホテルに泊まる時、監獄で面会を求める時、差し入れをする時、名前と住所を書かねばならなかったからである。徐俊植がソウル拘置所に面会に来た彼女に差し入れて欲しい書籍名をゆっくり言ったが、彼女が考え考え書いているうちに、面会時間が終わってしまって書き取れなかった。徐俊植は、このことを回想して「お学びになれなかったことが、どんなに遣り切れなかっただろうか!」と、妹宛の手紙に記した(徐俊植著、西村誠訳、前掲書、84頁)。呉己順は、女性差別のために文字を学べなかったという不利な条件を克服しなければ、韓国に行って息子を励ますことが出来なかった。しかし、獄中の息子たちは母が「まっすぐ、まっすぐ」と願ったように、非転向のままで出獄してきたのである。

 徐京植は母の生涯を次のように集約した。

 「呉己順は、在日朝鮮人1世の女性として、差別と貧困を嘗めた。40年を経て再会した祖国は、軍事独裁の暗黒のただなかにあった。その苦しみ多かった60年の生涯は、今世紀に朝鮮民族が経験した植民地支配と、民族分断を一身に体現するかのようだ。それは帝国主義と軍事独裁の時代の虐げられ軽んじられている民衆たち、とりわけ、その母たちの生に通じている。時ならずも予測を超えた輝きを発する彼ら民衆のしたたかさと知恵深さは、呉己順のものである」(徐京植「過ぎ去らない人々−難民の世紀の墓碑銘−」影書房、01年、246頁)。

 これは、呉己順に対する、きわめて適切な理解と評価である。しかし敢えて付け加えれば、彼女が受けた差別は、民族差別のみではなく、女性差別も受けたこと、しかし、二重の差別を受けたことから生ずる不利な条件と格闘して知恵を磨き、生き抜いたことに私は感動する。

 それからもう一つ付け加えれば、もし2人の息子の投獄事件がなければ、呉己順は、歴史の表に登場することはなく、一見平凡な女性として歴史の影で生涯を終えたであろう。

 しかしこれを逆に見れば、苦難の中で民衆的な知恵を磨いた、在日朝鮮人女性が大きな事件に遭遇しなかったために、歴史の表面下に多数隠れていたのではないだろうか。

 言い換えれば、潜在的な呉己順が在日朝鮮人女性の中に多数いたと思われる。そのことは、冒頭に掲げた諸文献が証明している。

 そのような在日朝鮮人女性の歴史をさらに掘り起こし、これからの在日朝鮮人女性運動の発展のための糧にすることが必要なのではなかろうか。隣人としての私にはそのように思われる。=終わり(山田昭次、立教大学名誉教授)

[朝鮮新報 2005.3.7]