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〈本の紹介〉 ウリハッキョ 民族のともしび

 本書は一人のテレビディレクターが、四国の小さな民族学校を舞台に、そこで生きる悲喜こもごもを見つめた秀逸なドキュメントである。

 テレビ取材のため、学校や暮らしの周辺の隅々までカメラが追いかける。しかし、取材者の民族教育と日本の社会に橋をかけようとする真摯な思いが受け入れられて、相互には熱い信頼関係と共感と友情が結ばれた。

 それを核として、よそ行きではない、上辺ではない「朝鮮人の心情」が切々と語られていく。

 それを可能にしたのは、著者の在日同胞の歴史と民族教育に寄せる深い理解と温かいまなざしであろう。

 全編を通じて繰り広げられる熱い日常と真実の言葉。児童、生徒と格闘する先生たち、学校を支える地域の同胞との絆。それ以上に私たちを熱くさせるのは、拉致事件という未曾有の衝撃に直面した子どもたちや学校、父母たちが、そこから目を背けず、一生懸命に考え、自らの生きた言葉を探しだし、誠心誠意を込めて、答えていることだ。

 当時を振り返っても、日本列島には拉致事件をめぐって卑劣で陰湿な民族排外主義が在日同胞の日常に張り巡らされていた。四国の小さな民族学校も例外ではなかった。生徒たちが見知らぬ男に蹴られたり、暴言を浴びせられるといった被害を受けた。

 「おまえ、朝鮮人だろう! おまえの顔、覚えたぞ、きょうおまえの学校に行って、石を投げてやる!」などとすごまれた中級部2年生の女子生徒。しかし、彼女はその時の気持ちを聞かれて気丈にもこう答えるのだ。「日本の人たちは、日本のマスコミの報道を聞いて、それで判断するじゃないですか。外国のマスコミだってたくさんあるから、いろんな報道を聞いて、自分で考えることが大切だと思います」。

 何と知性に溢れた言葉であろうか。教育というものは結局、自分の言葉で考え、自分の判断で行動できる人間を育てることに最終目標がある気がするのだが、この生徒の言葉にはそれが溢れ出ている。

 著者の人間としての懐の広さが、朝鮮学校を支える人たちの心に安心感を与え、胸襟を開かせている。 その心琴に触れる言葉に出会うたびに、引き込まれ、何度も目頭が熱くなる。

 著者はウリハッキョに通いながら、あることに気づく。「日本の学校が時代の流れの中で次第に忘れ去ろうとしている大切なものが、その国にある民族学校で頑なに守り伝えられている…。何とも皮肉な構図を感じた」と。

 つまり、かつて、日本の教育現場、学校にもあった「地域の教育、すなわち人づくりを引き受けている、全幅の信頼をもって任されているとの自負」が民族学校にはあると指摘する。

 厳しい情勢と苦しい学校運営。中は苦しくても、それを外には見せず、楽天的におおらかな気持ちで生きてきた在日同胞。しかし、著者のすべてを理解して、それをマイナスではなく、プラスのエネルギーにして見せようとする姿勢が、四国の朝鮮学校関係者の気持ちを動かし、結果的にすばらしいテレビ・ドキュメンタリー番組が誕生して、そしてこの本が生まれた。

 そこには、学校の先生たちの給料の遅配も取り上げられ、修理もできない学校の経営難も赤裸々に描かれ、生徒数の激減に悩む姿も映し出されている。

 しかし、それ以上にその苦しみや冷たい風に勇気をもって立ち向かい、学校を守ろうとする人々の気概、親子の絆、学校に寄せる1世たちの深い愛情。その幾重にも重なる人間の美しい情念と歴史性こそが、この本に新たな命の輝きを与えて、私たちの心に深い感動を呼び覚ますのである。

 ちなみにこの番組は03年7月28日ゴールデンタイムに放映され、「FNSドキュメンタリー大賞」審査員特別賞を受賞するなど、高い評価を得ている。

 その審査講評では「朝鮮学校について取り組んだ作品として、その斬新さ、深み、中立性において、過去に類を見ない優れた内容。

 厳しい現実に直面した子どもたちの将来に向けた役割の重要性も強調している」と指摘された。(創風社出版、村口敏也箸)(粉)

[朝鮮新報 2005.3.8]