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〈朝鮮史を駆け抜けた女性たちH〉 申師任堂

 儒教社会においての典型的な良妻賢母であった申師任堂(1504〜1551)は、朝鮮王朝時代当時だけではなく現代においても見習うべき女性としてしばしば取り上げられる。

 師任堂は身を慎み、7人の子どもたちを教育、三男李珥は朝鮮を代表する大政治家であり大学者に、また息子である李瑀と長女李梅窓は芸術家としてその名を留めている。李珥が残した申師任堂についての行状記には、次のようなくだりがある。

 「父が生計についての仔細には無頓着であったため生活が苦しく、母はいつも質素で勤勉、節約を旨としていた」

 また、常日頃から夫である李元秀に、もし自分が先に死ぬようなことがあれば、子どもたちの将来を考え絶対に再婚はしないで欲しいと言ったという。

 ある時、夫に科挙合格のため10年間離れて学業に専念することを約束させ、ソウルに彼を見送ったことがあった。だが夫は数日で家に戻ってしまい、そんな彼に師任堂は裁縫箱から鋏を取り出し、「この世に未練はありません。あなたが約束すら守れないなら、私は自決して人生を終わらせようと思います」と言う。

 立派な子育て、生活においての倹約、夫の出世のための内助、そして嫁ぎ先の両親と実家の母を大事にしたというのだから、現代においてもこんな女性に憧れる人は多いだろう。

 申師任堂は「良き母、良き妻」であったばかりでなく、朝鮮王朝が要求する儒教的な女性像に収まるのではなく、独立した人間としての個を確立した女性であった。妻や母である前に、ひとりの女性としての自己実現を果たしたのである。彼女は詩作に秀でたばかりでなく、書と絵画にもその才能を開花させ、時代を代表する詩人、画家、書家としてその名を留めている。その画才について魚叔権(生年没日未詳)はその著書「稗官雑記」に、こう記している。

 「師任堂の葡萄と山水(画)は絶妙であり、評する者たちが『(当代一の画家)安堅の次を行く』と言う。婦女子の絵といえど軽んじる事は出来ない。また、(絵を描くことが)婦女子にはあるまじきことと咎めることすら出来ない」

 夫も、師任堂の絵を友人たちに自慢するほどだった。「理解のある」夫である。日頃から、夫は妻の話に耳を傾け、彼女の才能に理解を示し、姑もまた寛大であったらしい。封建的な因習に縛られていた当時の女性は、自らが属した家門の背景や、家庭の事情によって、人生の質が決まってしまうことが多かった。

 申師任堂の場合、朝鮮王朝中期まで続いた母方の実家での暮らしの風習の名残か、母方で生まれ、母方で裕福に育てられた。一人娘だったため、男の兄弟に対する遠慮や競争意識を感じることもなく、母と母方の祖父から学問を授けられる。母もまた一人娘であった。結婚後も夫の同意を得て、長く実家暮らしをしている。当時の、いや現代も、女性たちが嫁ぎ先で体験する精神的苦痛や家事労働の苦労が、少なかったのである。このような「特別に恵まれた」環境とあいまって、申師任堂自身の稀有な才能が花開いたのであろう。

 「特別に恵まれた」環境になかったなら、その才能ゆえに許蘭雪軒のように悲劇的な一生を送ったのかもしれない。

 申師任堂の画には人は描かれず、美しい花や幼い頃触れた自然の名残としての虫や小動物が写実的に、色鮮やかに描かれる。だがその詩には、女として生きる悲しみや、悔恨が詠われる。(趙允、朝鮮古典文学研究者)

 老いた母を故郷に残し
 ひとり都に向かう
 ふり返れば北村は遠くかすみ
 白い雲だけが
 暮れ行く山を駆け下りる

 (「大關嶺を越え実家を望む」)

[朝鮮新報 2005.3.14]