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若きアーティストたち(29)

シンガーソングライター・河弘哲さん

 「朝大歌謡」といわれる朝鮮大学校で学生たちにより作られ、歌われている大衆歌謡がある。80年代の「山つばめ」や「松ぼっくり」「ぼくは詩を創りきみは曲を作る」などに次ぎ、90年代以降も「腕時計」、「希望の翼で」などの「ヒット曲」が生まれている。

 河弘哲さん(25)は、数々の朝大「ヒット曲」を生み出した創作者である。現在、広島朝鮮歌舞団で歌手として活動しながら創作活動を続け、若者向けの歌謡曲を朝大にも届けている。

 「歌は時代を反映し、人々の心を映し出す。在日同胞の若者たちがウリノレを敬遠するのは、それが嫌いだからという理由ではなく、自分の好みの歌ではないということ。大衆歌謡は人々に親しまれ、歌われなければ意味がない」

 福島県出身の河さんは、初級部1年生のときから大学まで寄宿舎生活を送ってきた。現在も親元はなれて遠く広島県で一人暮しをしている。

 2人の姉を持つ3人姉弟の末っ子として、家族の愛情をたっぷり受けて育った河さんにとって、両親と離れて生活するのはとても辛いことだった。寄宿舎に入る初日には、周りがびっくりするほどの大泣き、大騒ぎ。幼くして河さんは、福島中の同胞が知る「有名人」となってしまった。

 「そんな淋しさを紛らわせてくれたのが音楽だったのかな…」と、河さんは振り返る。

 初級部1年生からピアノを習い始め、初6のとき、初めて「サッカー部の応援歌」を作詞作曲。初4からは寄宿舎クラブで、トランペットを吹き始めた。

 そんな息子の思いを知ってか、母親は、夏休みになると東京のサントリーホールで開かれる親子コンサートに河さんを連れて出かけた。半ズボンに蝶ネクタイという格好で。

 「オモニは日頃一緒にいられない分、夏休みや冬休みにはいろんなものを見せてくれた。コンサートでは、世界の有名な曲を良い演奏でたくさん聞いた」

 音楽が好きで、それを専門的にやりたいという気持ちから、河さんは朝鮮大学の音楽科に進む決心をする。

 曲を作るうえで常に念頭においているのは、大学で学んだ「主体的創作理論」に基づくこと。「リズムパターンを作ることによって曲が単純化されると歌いやすい。オペラを聞くと、すごい! と思うが、大衆歌謡にはなりづらい。僕が目指すのは青年大衆歌謡。わかりやすい歌詞に、民族的なスパイスを効かせて歌いやすい曲を作る。今は甘いラブソングよりは、在日の原点をしっかりみつめるものを作りたい。何でここにいるのか、何でこだわり続けるのか、そんな思いを歌に込めたい」。

 広島歌舞団の歌手として舞台に立ちながら、ピアノやギター、チャンゴの奏者として、エンターテイナーであることも見せつける。

 「作り手が一方的な主張ばかりを押しつけると大衆は引いてしまう。同胞の反応を肌で感じながら、若者たちのニーズに合った曲づくりを心がけたい」(金潤順記者)

[朝鮮新報 2005.3.16]