絆−家族の姿[5] 芸術母娘−幼子を抱えて地方、祖国、海外へ |
李丞玉さん(東京都在住、46)は、金剛山歌劇団の元司会者として日本国内はじめ祖国や海外などさまざまな舞台の司会をつとめてきた。金日成主席の生誕65年を祝う公演を機に歌劇団入りした李さんは、その後現在に至るまで、朝鮮語の話術の専門家として多方面で活躍している。 劇団での結婚、出産、育児。きらびやかな舞台の上での笑顔とは裏腹に、現役時代は人知れず涙を流すことも多かった。 「これまでたくさんの人たちに支えられてきた。夫や両親、姉、妹、その夫や家族、祖国の託児所、親戚たち…。子どもが小さいときには心の葛藤もあったけど、祖国の恩に報いる一心と、周りの支えがあってやってこれた。幸い、娘も大きな怪我や病気もなく、元気に育ってくれた」と李さんは話す。 娘時代
李さんの両親は、共に困難な時代から愛国事業に半生をささげてきた。幼い頃から両親の姿を見て育った李さんは、朝高卒業の年に金剛山歌劇団にスカウトされた。金日成主席の生誕65周年を祝う晴れの舞台に立ち、貴重な教えを受けた。それが大きな励みとなり、主席と祖国に熱い思いをささげていた両親の代を継ぎ、芸術をもって愛国の道に生涯をささげる決意を固めた。 幼子を抱えての祖国や海外での公演。そのときには、平壌市内の託児所に子どもを預けて舞台に立った。 「あの頃は、これ(仕事)は自分のエゴではないのかと自問を繰り返していた。そのつどまわりの人たちが背中を押してくれて。祖国の託児所の先生方にはとてもお世話になった」と、李さんは振り返る。 娘の尹仙雅さん(20)は、「物心ついた時から家でのオモニの姿より、舞台に立つ俳優としての姿の方が記憶に残っている」と話す。幼い頃からオモニは地方や海外での公演、祖国での研修などで家にいないのが当たり前のように思っていた。母親が家にいないのは寂しかったが、舞台に立つ俳優としてのオモニの姿は誇らしかった。小さな手を振り、健気に「公演頑張ってね」と言う娘の言葉を励みに、李さんは舞台に立っていた。 初めての反抗
仙雅さんが、朝高卒業後の進路を「金剛山歌劇団に行きたい」と告げたとき、家庭内には嵐がやってきた。 「絶対反対」の姿勢を崩さない両親と対立する仙雅さん。李さんは、「それまで親に歯向かったことのない子だったから、決意の固さに驚かされた」という。芸術の道がどれほど辛く険しいものか、身を持って知っている李さんは、娘に大学進学と就職を勧めていた。ところが、娘は涙で抗議。 「この世のすべての母親が芸術を反対しても、仙雅のオモニだけは反対してはいけない。芸術をもって主席に喜びを、祖国の人民と同胞たちに希望と力を贈ってきたオモニが反対するのは間違っている」と涙ながらに訴えた。 「この子がそんな目で私を見ていたのか」と、李さんは思った。驚きのあまり返す言葉が見つからず、夫共々娘の強い意思の前に折れた。 仙雅さんは、芸術を選んだ理由を「高校3年間、祖国で朝鮮舞踊を学んだ数少ない在日同胞の1人としてその恩に報いたかった。幼い頃から見てきたオモニに対する憧れも理由のひとつ」と語った。 仙雅さんは今年1月から金剛山歌劇団の舞踊手として活動しており、現在は平壌で研修中だ。 同じ道を
李さんは現在、金剛山歌劇団の嘱託団員として日本各地で朝鮮語の話術の指導に当たっている。常に向上心を絶やさない李さんは、平壌演劇映画大学の博士課程で学ぶ海外同胞第1号でもある。「主席の教えを胸に、一生涯、朝鮮語の話術をもって愛国事業に献身する」と強い意欲をもやす。 そんな母親の強い影響を受けて、娘の仙雅さんも昨年10月、在日同胞第1号として平壌音楽舞踊大学専門学部を卒業した。 母娘共に祖国の温かい懐に抱かれて、専門知識を身につけ、技術を磨いている。 仙雅さんは、「李丞玉の娘、というのがプレッシャーになることもあった」と語りながらも、「オモニを1人の芸術家として尊敬する。朝鮮語の話術では李丞玉、舞踊では尹仙雅と認められるような舞踊手になりたい」と夢を語った。 母娘の歩みは代を継ぎ、これからも続くだろう。(金潤順記者) [朝鮮新報 2005.3.28] |