〈トーク朝・日のいま〉 在日の個人史に光を 愛知大学教授・伊東利勝さん |
愛知県豊橋市の広報にこんな文章が掲載されたことがあった。「ほんの少し前までは、外国人といえば大都会の大学や盛り場でしか見かけなかったものですが、いまではどうだろう。中都市の豊橋市でも至るところで外国人を見かけるようになりました」。 この記事のタイトルは「市民レベルでの国際交流をすすめよう」。愛知大学文学部史学科の伊東利勝教授はこう嘆く。「確かに豊橋のいたるところに日系ブラジル人やペルー人をよく見かけるようになった。ここでいう『外国人』とは、ラテン系の顔立ちをした人たちという理解なのです」。 近年、世に言う国際化が急速に進み、市民の一人ひとりが外国人や異文化への対応を余儀なくされつつある。多くの自治体が国際交流会を設立したり、外国語の標識を増やしたり、国際文化セミナー、シンポジウムなども花盛り。 伊東さんはこうした風潮に首をかしげる。「よく考えてみると、外国人が身近に暮らすという状況は、何も今に始まったことではない。つい半世紀以上前には、250万人以上の朝鮮人や中国人という外国人が日本国内に在住し、豊橋も例外ではなかった」。
伊東さんは豊橋市の朝鮮人居住率が1920年代末、日本人20人に対し朝鮮人1人の割合で「全国の最高率」を示していた歴史を紐解きながら、自分は日本人だと思っている人の中に欠落する朝鮮人観について語りだした。 「市民にとって最もスタンダードな『豊橋市史』を見ても、朝鮮人に関する記述は何もない。そこで、ほかのいくつかの文献を見てみると、彼らが豊橋海軍航空隊基地建設や市内の製紙工場での労働に関係していたことが断片的に言及されている。しかし、これらを読んでも、彼らがなぜ、豊橋に来て、どのように暮らして、今に至ったのか、ということははっきりしない」 自らの植民地支配の歴史に触れたくないのか、歴史の暗部に迫る勇気がないのか、それとも朝鮮人が暮らしていたという認識が欠落しているのか、これらの経緯を正面から発掘する作業は敗戦後60年を経ても全く進んでいない、と悔やむ。 「近代における日本人と朝鮮人や中国人とは、支配、被支配民族という関係であったためか、日本人側に国際関係という認識が欠如している。このため、今も朝鮮、中国人との関係を日本における国際化社会構築の原点にしようとする発想が、見られない」 伊東さんはこうした考えから、大学のゼミや講義で日本人にとって身近で、つきあいの深い「外国人」である在日朝鮮人への対応こそが、今後日本人が国際人として脱皮していく際のポイントになると力説している。 「在日朝鮮人の実像を明らかにするためには、制度や統計ではない一個人の生きてきた軌跡にスポットを当ててこそ、見えるものがある」 伊東さんは学生たちと共に、すでに10年以上も前から何カ月もかけてじっくりと市内に暮らす1911年生まれの同胞1世の話を聞き続けた。解放前は西日本各地の肉体労働に従事、豊橋海軍航空隊基地建設の重労働にも耐え、日本の戦時経済を最底辺から支え続けた老人だった。 「彼は日本の支配下で教育も受けられなかった。たしかに無学ではあろう。しかし、聞き取りをして思ったのは、彼の記憶力や話の運び方が周到であることに舌を巻いた。とても、肉体労働しかできなかった人とは思えない。機会さえ与えられれば、どのような仕事もこなせたはずである。それが朝鮮人であったばかりに、特定の職業にしか従事できなかったことが、彼の半生を決定したのだ」 彼の息子も同じような人生を歩む外に選択肢がなかった。「1930年生まれの彼も渡日した父の跡を追って、幼い時から母の手伝いをして家計を助け、勉強したくてもできる環境ではなかった。息子はインタビューの終りに『我々在日朝鮮人は、戦時中ならまだしも、戦後も一貫して差別を受け続けてきた』と、無念の思いを語った」 かれらが日本社会に溶け込まないのではない。かたくなに朝鮮の文化を蔑み、この中で育った者を排除し、拒み続ける執拗な力が日本社会を覆い尽くしていると、伊東さんの指摘は明快だ。在日朝鮮人の苦闘に光を当て、近代日本の内なる闇を照らし、現代社会に警鐘をならしたいと語った。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.3.30] |