〈朝鮮史を駆け抜けた女性たちI〉 珍福 |
朝鮮王朝時代の女性達には一切の財産相続権がなく、嫁した後も夫人の自由になる財産は一切なかった、と思いがちだが、それは正確な事実ではない。朝鮮初期や一部中期に至るまで、子女均等相続であり、「経國大典」に詳しい。嫡子の場合、男女の区別なく均等に分配したといい、初期および中期の朝鮮社会においては、財産相続は男女平等だったのである。だが、庶子の場合においては差別があった。嫡子の7分の1、或いは10分の1だけを分配するというものだった。 宰相家の庶子であった珍bヘ、この相続の平等を妬まれ、悲劇的な一生を余儀なくされた女性である。一宰相の側室の娘の記録があること自体、大変珍しいことであろう。柳夢寅(1559〜1623)の文集「於于野談」には、身分の差別や、女性の行動の制限、処女性の強制、迷信などによって、不幸になっていく珍bフ生涯の断片が記録されている。 珍bェ生まれたとき宰相は、側室のあまりのかわいがりように不吉なものを感じ、巫女と易者に占わせる。すると、無責任にも彼らは、珍b他人に養育させるべきだと主張する。当時の織組里にたいそうな資産家の老婦人が住んでいた。子がなく、常日頃から宰相家に出入りし、側室には貢物を欠かさなかった。占いの結果を聞いた老婦人は、快く珍b引き受け、莫大な財産の相続まで約束する。珍bヘ宰相の庶子ではあるが、老婦人の庶子ではないからである。愛娘に富を約束された側室が、たいそう喜んだことは言うまでもない。珍bェ16歳になると、老婦人の親族達が自分の子を養子にと望んだが、珍bヘ美しく成長し、老婦人は実の娘のように慈しんだ。権力におもねるあまり、ほかの氏を持つ者に家督を継がせることに腹を立てていた親族は、珍b騙し、老婦人の憎しみを買うような一計を案じた。口のうまい男が、親族の中から選ばれた。「お嬢さん、先日若い文官様がお嬢さんの姿を一目見て、その美しさに見とれ、どんなことをしてでも側室にと望まれているのですが、大叔母が反対なのです。大叔母は欲深で、あなたを商売人のところへやるつもりなのですよ。宰相家のお嬢さんが、一体どうして商家に嫁ぐ必要があるんです。私に任せておきなさい。文官様は使いをよこすとおっしゃっています。お母様のように、宰相様になるような方と婚姻を結ぶべきですよ」 男は何度も珍b尋ねると、そのうまい口でまんまと彼女を騙し、連れ出すことに成功する。奥深い部屋からほとんど出たことのなかった珍bヘ、自分がどこに連れて行かれるのかも分かっていない。立派な屋敷の、屏風と御簾で仕切られた部屋に連れて行かれると、珍bヘそこで麻の服を着た、黒い髭の裸足の男に乱暴され、その場にうち捨てられる。どこに連れて来られたのかも分からない彼女は、呆然と屋敷を出て、あちこちさ迷い、その屋敷が司憲府であり、髭の男が下級の使令であることに気づかされる。夜も明け、乱れた服装のまま、涙ながらに帰った珍bフことを聞いた宰相家では、傷ついた娘を思いやることはおろか、いとも簡単に縁を切ってしまう。家門の恥だというのだ。珍bヘ「身が穢れた者」として、老婦人の家からも追い出され、彼女自らも「穢れた」我が身を呪い、身を持ち崩し、結婚をすることもなく、貧しく、悲しい一生を送った。 庶子に対する差別制度は、門閥と身分を強調する朝鮮王朝社会が生んだ矛盾の産物である。庶子であり、女性であった珍bヘ、彼女が生きたであろう朝鮮中期末から後期にかけてのその社会制度の矛盾を、不幸にも体現してしまう。女性の寺への参詣の禁止、民間信仰の禁止、服装の規制、内外法、すなわち男女間の自由な接触の禁止、その違反者への極刑を伴う懲罰。朝鮮中期から後期に渡って徹底された性理学的倫理規範の確立。 だが、朝鮮後期には見ることの出来ない相続の男女平等が、珍bフ一連の不幸の端緒になったことは、皮肉としか言いようがない。(趙允、朝鮮古典文学研究者) [朝鮮新報 2005.4.4] |