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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 中野正剛(上)

 中野正剛(1886−1943)は言論人にして政治家であるが、人物評価の面では難しい側面を併せ持った人物である。

 初期は護憲派として藩閥政治やこれと連なる政友会を批判し、また、寺内総督の朝鮮統治政策を激しく非難するだけでなく、対独参戦やシベリア出兵に反対するなど、その言論活動は大いに世の注目を集めたものであった。その中野が1930年代、ことに1931年9月の満州事変以後、急速に右翼化を強め、1937〜38年にかけてのイタリア、ドイツ訪問で、ムッソリーニ、ヒトラーと会見してからは、日本のファシズム運動の先頭に立つ。そして日独伊三国同盟を推進し、「米英撃つべし」の旗ふりをやる。故に、1941年12月8日、東条内閣が太平洋戦争に突入した時、中野はその本拠東方会本部で万歳を連呼したものである。しかし、東条が軍事的ファッショ統治を強化し、漸次中野や東方会をしめつける方策を取り始めるや、中野は俄然、「東条は誤った方向へ国を導く」と反東条へと態度を一変させる。これより、権力を一手に握った東条と、東条内閣打倒に向けた中野の壮烈な闘いが展開されることになる。1943年10月、中野は検挙され、6日後釈放されるも、その深夜、自邸の居間で割腹自殺を遂げる。中野正剛は東条の独裁的政治に抗して自決した、と評される所以である。しかしながらこのように政治的振幅の激しい中野には1910年代、20年代を通して、実に際だった朝鮮認識を示した人物であった。ここではその朝鮮観の核心部分は何であったかを見ることにしたい。

 中野は今の福岡県福岡市で父泰次郎、母とらの長男として生れた。家は代々、黒田藩士である。幼名は甚太郎。正剛とは、後に自ら改名したものである。

 正剛は小さい時からきかん坊で、毎日のようにケンカをした。1891(明治24)年、福岡市当仁小学校入学、師範附属小学校高等科を経て、1899(明治32)年修猷館中学入学。1905(明治38)年3月、同校を卒業。4月、早稲田大学に入る。中野の中学、大学時代は、日本、朝鮮を含む東アジアは大激動の時代である。

 1904年2月、日露戦争となり、1905年11月には韓国保護条約の強制調印があり、翌年、韓国統監府が置かれ伊藤博文が初代統監として乗込んでくる。日本は世界帝国主義国への仲間入りを果し、なお上昇中と自認する。中野は、そんな機運の漲っていた1909年、早大を卒業し、東京日日新聞に入社するも、3カ月後退社し、朝日新聞社に移った。その朝日紙上に1912年10月、「明治民権史論」を連載し、若くして文名を高める。そして翌年8月、朝鮮京城特派員を命ぜられ、新婚の妻とともに東京を立つ。中野は朝鮮で各地を取材し、翌1913(大正3)年4月16日から15回にわたって連載されたのが、「総督政治論」である。

 「総督政治を悪政と評せば、頗る苛酷にして、諒察を欠くの憾あり、〜然れども動機は善なりとするも、結果の不可なるあれば、之を善政と謂う可からず。故に余は寺内伯の総督政治を目して、敢て善意の悪政と評せんと欲す」。「善意の悪政」とは不得要領な表現だが、寺内総督や明石元二郎憲兵司令官兼警務総長の武断統治政策への批判であることは間違いない。

 中野だけでなく、前任者の荒木記者や、その前任の岡野養之助もはげしく寺内の朝鮮統治の苛酷を批判していたものだが、中野の批判が一番痛烈だったと言える。

 中野は「総督政治論」で、朝鮮における言論報道の自由を要求する。(ここには、朝鮮人の民族新聞のことは念頭にない)また産米改良政策と併せて貯穀奨励の失敗や、綿花栽培、葉煙草栽培、土地兼併問題、会社令問題、干渉政策と憲兵制度問題等々につき、中野流の辛辣な筆誅を加える。もっとも、明石個人については、同県人で、同じ右翼国粋団体玄洋社の流れに属している関係からか評価は甘い。しかし、憲兵政治の実態と関連しては、日本人官吏たる「地方官は挙りて憲兵の鼻息を覗はざる可からず。殊に鮮人たる郡守の如きは、全く憲兵の奴僕たるの観を呈せり」と書く。

 この「総督政治論」は他の朝鮮関連論文や「満州遊歴雑録」を併せて、翌1914年5月、単行本「我が観たる満鮮」として刊行された。

 この本の中に「同化政策論」なる一篇が収められている。この論文は「日本及日本人」誌に発表されたものである。この中で中野は、「日本と朝鮮の関係は、単に統監政治を布きし以来の事に非ず。神功の三韓征伐より、高麗百済の入貢に起源し、此間我は彼の文物を容れて、大陸の新文明を吸収し、益を受けしこと少なからざるなり。豊臣秀吉の朝鮮征伐は、無名の師として之を難ずる者あれども、備さに事情を究むれば、我国自衛の策に外ならず」という。

 まあ止むを得ぬ理解とするも、「日本人は強者に迫害せらるれば、窮余、却って勇を生じ、敵を刺して自らも斃れんとするを常とす」、だが朝鮮人は「憤然剣を按じて起つ能わず。流涕長大息の後は、我を殺せ我は死せんのみと叫ぶのみ」とくれば、もう完全な朝鮮蔑視観の発露である。

 その中野が、ここで朝鮮人に参政権を与えよと声を大にして説く。これは、当時の日本人識者間でも夢想だもしない驚天の提案である。(琴秉洞、朝・日関係史研究者)

[朝鮮新報 2005.4.11]