〈人物で見る日本の朝鮮観〉 中野正剛(下) |
中野は「同化政策論」中に「皇族を奉戴し、参政権を与へよ」という一項を立て「余は人類なるものの性情より推して、圧制の決して新附の民を御する所以に非ざるを説きたり。〜鮮人に参政権を与ふるの準備をなすと同時に、皇室の連枝を新領土に迎へ奉りて、威厳と思愛の源泉となすにあり」と主張した。つまり、朝鮮総督の武断統治は失敗だから、朝鮮人に参政権を与へて自治を許す、というにある。ここまでは或る種の危機意識を持った提案として理解できぬことではないが、朝鮮に皇族を奉戴せよ、とは天皇の直接統治を強化せよとの意である。いかに朝鮮人に深い理解を示しても、これが中野正剛の朝鮮統治論の限界であった。 中野は京城特派員を解かれた後、ロンドン特派員を命ぜられる。折からの第一次大戦をヨーロッパで見聞した彼は帰国後、間もなく朝日を退社。そして、「東方時論」(雑誌)を経営して、独特の言論活動を展開する。 その後の彼の行動歴は、大正9年福岡県にて衆議院議員に当選して政治家となり、以後8回当選を果たす。1929(昭和4)年、浜口内閣で逓信政務次官、1931年12月、満州事変を機に民政党脱党、東方会を興す。1937〜38年イタリア、ドイツ訪問。1940年10月、大政翼賛会の総務になったが翌年脱退、東条の軍部独裁政治に反対して、東条内閣打倒で重臣間に工作。1943年、逮捕され、そして自決という道筋をたどることになる。 さて、中野の朝鮮認識にもどることにしたい。1918(大正8)年3月1日、朝鮮で高宗の死を契機に3.1独立運動が起る。中野は「国民新聞」や「東方時論」等で、大いに朝鮮問題を論じ大正10年3月に「満鮮の鏡に映して」と題する単行本を刊行した。 「朝鮮人の独立運動は、我国に対する侮蔑と怨嗟との結晶である。朝鮮問題は単なる朝鮮の問題ではなく、我大和民族の存亡問題である」、「朝鮮問題は窮極日本人心の改造問題に帰着する。〜今日の屈従道徳に代ふることが、朝鮮統治問題の要点である」。つまり、朝鮮問題を日本の存亡問題ととらえ、日本人が心を改造しなければならない、というのである。また具体的に「総督府は内鮮人区別撤廃を吹聴し、官吏の待遇にも内鮮人の間に区別を設けないと自慢して居る。〜それが何であるか、政務総監も局長も、ドシドシ鮮人から採用するがよい、人物がないとは言はさない」という。そして「帝国憲法を朝鮮に施行せよ」というのである。これはまた、当時の日本人としてはまことに大胆な提言である。 「朝鮮の自治、朝鮮の独立が実際問題とならぬ前に、先づ朝鮮と内地との差別を絶対に撤廃すべきである。帝国憲法は朝鮮にも適用すべきである」「政府は口に同化を説きながら、鮮人には帝国臣民が一様に享有する憲法規定の権利をすら与へない。戸を閉め切りながら、入り来れと命ずるも同然である」。原敬内閣は中野の提言を受け入れず、アメとムチ的な「文化政治」で表面を糊塗する政策に転じたが、為政者には中野提言の重さは判っていた筈である。 ところでこの時期、中野を囲繞する人物の中には、中野の論を突き抜けて朝鮮独立を肯定する人々がいるので、そのことを紹介したい。その@は金子雪斎である。中野が東京で朝鮮問題を話した時、「朝鮮は独立させてやるのだ」と言ったという。雪斎は更に語をついで「人間が人間に対して『お前は独立してはいけない』など、どうして曰へるか。そんな馬鹿な説法は、如何に巧妙に潤色しても、朝鮮人は誰も耳を傾けない」と言った。金子雪斎は長いこと大連で振東社を興し、当地の青年や日本青年30余名を養っていた人物である。 そのAは三宅雪嶺である。「朝鮮の国境に武力侵入が始まり、全鮮に爆弾騒ぎが行はるるに至った際、〜『朝鮮人が思ったより強いのは頼しい。擬似事のやうでも、軍隊を組織して案外能く戦う、じやないか』」と言った。中野曰く「雪嶺博士が所謂不逞鮮人の暴動を憂へずして、却て彼等の気骨と能力を悦ばれた」。以上の2例は「満鮮の鏡に映して」に収録されている。この時の三宅に朝鮮独立を否定する気配はない。ちなみに三宅雪嶺は中野の妻の父である。 そのBは緒方竹虎である。緒方は朝日新聞記者として英国に行き、その帰途、インド洋上から、「世界の大勢の上の朝鮮問題−『満鮮の鏡に映して』を読む−」と題したものを「東方時論」に寄稿した。「セルフ・ディターミネーション(註・民族自決)を求むることは、戦後に起った新運動を一貫した精神である。この自由を求むる運動が澎湃として起った時これを否定する理由は毫もないと思ふ。少くも主義としてはその運動の正義を認めなければならぬと信じる。僕はこの意味に於ての朝鮮独立論者である」。緒方竹虎がこの時期、朝鮮独立論者であったことは特筆に価することである。 この緒方が朝日の主筆の時、1943(昭和13)年元日号に、中野の「戦時宰相論」が緒方の依頼によって載った。これに東条が激怒し、中野の東条内閣打倒工作ともからんで、中野の割腹ということになる。 この時期、中野が如何なる朝鮮認識を持っていたか、知る由はない。(琴秉洞、朝・日近代史専攻) [朝鮮新報 2005.4.13] |