〈トーク朝・日のいま〉 壮者しのぐ研究と大著 最高齢の考古学者・斎藤忠さん |
1908年生まれの97歳。「現役考古学者のなかで最高齢」である。いまでも世界各地の遺跡を回り、年に3回は海外での遺跡調査をこなす。1月には中国のアモイ、3月にはインドを訪問、夏には中国・杭州にある高麗寺の遺跡調査を予定している。さらに秋に予定されている開城・高麗寺院の霊通寺の落慶式の招待状も届いており、「是非出席したい」と意欲満々。 著書の数はぼう大。「学者の理想は、生涯において著書を積み重ねて自らの背丈を超えるほどの高さにすることです」と軽妙に語る。すでに著書の数は背丈をはるかに超えて、この数年だけでも「日本考古学文献総覧」「斎藤忠著作選集」全6巻、「北朝鮮考古学の新発見」「高麗仏教資料集」「中国五台山竹林寺の記録」などの大著を出版。今年も「日本考古学人物辞典」(650人収録)など3冊の刊行を予定。そのため、書斎の机には、原稿や自らが映した世界各地の遺跡写真、さまざまな図録がうず高く積まれていた。 先月のインドでの遺跡調査のためか、顔は赤銅色に輝き、とても白寿間近とは思えない。自宅にうかがうと門まで自ら出迎えてくださった。「大御所」と呼ばれ、重々しい肩書きも星の数ほどあるが、腰が低く、気さくな人柄。今も財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所長として、静岡まで通う。同研究所の4月1日の年度始めの式典では、「1日、1月、1年の目標をきちんと立てて、それに向かってまい進することと、常に探求心と好奇心を忘れず仕事に取り組むことが大切」だと訓辞した。
斎藤さんの今年の目標は、著書「仏法僧の仏跡の研究」の刊行である。原稿は約1000枚、カラー写真100枚、さし絵も200枚を超える600ページの労作。この中には高句麗の仏法僧・玄遊が7世紀にスリランカまで辿った旅の事跡も詳細に報告される。8世紀の中国(唐)で刊行された書物で確認されているという。だとすれば、8世紀に中国、インド、イラン、アラビア、シリアなど37カ国を徒歩で巡礼し、大旅行記「往五天竺国伝」を著した新羅の慧超より100年以上も早く高句麗僧が、シルクロードへの旅を敢行したことになる。 はるかな歴史に刻まれたこれら先達の人類史への偉大な貢献。その足跡への畏敬の念が、斎藤さんを新たな研究へと駆り立ててやまない。 98年5月初旬に大正大学創立70周年の記念事業として、開城の霊通寺を訪ね、現地で日朝共同発掘の鍬入れを行った。 「岩を砕き、水溜まりを越え、険しい山道を徒歩で一時間。遂に文献などで読んで憧れていた由緒ある寺院跡に立つことができ感動しましたよ」と話す。みずみずしい感性と記憶力に驚かされる。「この寺は高麗時代の高僧・大覚国師の碑も残り、当代随一の名僧らが学問に励み、詩人たちが競ってその美しい景観を歌に詠んだ歴史に名高い所です。本当はテントで一泊でもして、感激に浸りたかったのですが、狼が出没するということで断られました」と残念そうに語る。
朝鮮の遺跡の旅の全てを自らのカメラで記録している。寺院跡、その周辺はもちろん目にする山の景色、ひっそりと道端に咲く花々、そして暮らし、出会った人々の表情まで多彩にかつぼう大な写真を収集する。 「97年10月、平壌での寺院の視察の帰りがけに牡丹峰で、金正日総書記の推戴を祝う人々の踊りを目撃しました。実に楽しそうで、明るくて。カメラに収め、手をあげると、喜んで手を振ってくれました。とても麗しい光景でした」 「開城の発掘現場で、若い人たちが休み時間になるとシャベル、鍬などの道具をきちんと揃えているのを見ました。こんな美しい姿は、日本ではもう見ることはできません。儒教精神なのだと思います。礼儀の大切さが脈々と生き続けていることに非常な感銘を受けました」 壮者をしのぐ研究と著作。朝5時起床、仕事始めは5時45分。午前中に思索を深め、原稿書きに没頭し、午後は写真やデーターなどの整理。夜は夕食の前に水割りを1〜2杯。この習慣は海外の旅でも崩さない。就寝は夜9時。この厳しい自己管理が長寿の秘訣かも。 考古学70余年の道を支え続けているのは、人間に対する洞察力と各民族が生み出した文化に対する深い敬愛の心であろう。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2005.4.20] |